何処かで嗅いだ匂いだなと思った。
いつもなら、何も思わないその匂いが気になり、俺は首をかしげる。
それは、冬頃にできた恋人からした匂いだ。その匂いは俺のバイトしているコンビニに、恋人のイツミくんが来たときからしていた。
その時、イツミくんはいつものように同じ弁当を手に取り、チョコレートで悩んだ後、レジに来てくれた。俺も、いつも通りたんたんとバーコードの読み取りを済ませ、他の客に向けるより三割増しの笑顔でイツミくんに話しかけたのだ。
「イツミくん、今日暇?」
「何か用か?」
小銭を数えながらのそっけない返事に、俺は見られていないにも関わらず頷いた。
「バイト終わったらイツミくんち行っていいか、聞きたくて」
財布から小銭を漁る手が一瞬止まる。どうやら、小銭を数えているふりをしていたらしい。恋人になって何ヶ月か経つが、イツミくんは照れ隠しの道具を未だに必要としている。俺と外で話すときは、よく手で弄れるものを触っていた。
「いいけどよ」
一瞬手が止まったものの、やはり返事はそっけない。しかし、いっこうに小銭が出てくることがなかった。
俺は知らんふりをし、金を指先でつまむ。
「うん、なら行くね。……87円のお返しです」
イツミくんの右手がおつりを乗せてくれと差し出された。俺はその右手を左手で掴んだ。そしてレジへとイツミくんを引っ張り、耳元で囁く。
「楽しみにしてて」
ちょっとした悪戯心だ。
その際、何処かで嗅いだ匂いが俺の鼻をくすぐったのである。その時点では、イツミくんから嗅いだこともない匂いに不思議に思ったが、イツミくんの反応に気をとられていた。
囁かれ、弾かれたように俺から離れたイツミくんの耳は赤い。俺は満足のあまり、頬を緩めた。匂いのことなど、イツミくんの可愛さの前ではたいしたことではなかったのだ。
俺は掴んでいた手におつりを乗せ、握らせると、違う意味で首を傾げた。
「ね?」
念を押すように、同意を求めるように、可愛らしく首を傾げたつもりである。
それを可愛いだなんて間違っても思っていないだろうイツミくんは、弁当とチョコレートの入った袋を乱暴に手に取ると、去り際に吐き捨てるように言ってくれた。
「そんなんするに決まってんだろうが……!」
大変素直で可愛らしい反応だ。
俺はその後、真面目な顔をしているのも難しかった。おかげで休憩から帰ってきた店長に、気持ち悪いから日本の経済について考えるか、素数でも数えていろといわれてしまった。
俺は仕方なく、円周率を思い浮かべる。
四回目の九を思い浮かべたあたりで、そう思えば不思議な匂いがしたなぁと思い出したのだ。
あの匂いはなんだったんだろうか。
思い返しても、何処かで嗅いだことがあるという感想しか浮かばない上に、イツミくんが可愛いことを思い出し、気持ち悪い顔しかできない。
深夜のバイトでなければ、店長どころか客にも気持ち悪がられてしまうところだった。
そんな俺がその匂いの正体に気がついたのは、バイトが終わってからだ。
バイトが終わると俺はチョコレートの入ったビニール袋を片手に、鼻で歌いながらバイクを置いている場所まで行った。すぐにいつもとは違い、イツミくんがバイクの近くで待っていることに気がつき、俺は鼻歌を止める。静かに行って驚かしてやろうと思ったのだ。
俺はヤンキー座りで待つイツミくんに、差し足抜き足忍び足で近づいた。しかし、イツミくんも俺にやられてばかりではない。
「……弘人さん、そういうのやめてくれねぇか」
「ご飯買いに来たときも真っ赤だったもんね。やだよ」
俺に気がついたイツミくんが、顔を上げて釘を刺してくれた。眉間に皺まで寄せての言葉だが、俺も言うことを聞くつもりはない。
「意外と言うこと聞いてくれねぇよな、あんた」
「通るものは通すつもりだし、可愛いからね」
「かわいかねぇよ」
イツミくんはいつも素で否定してくるものだから、少しだけ浮かれた気持ちが落ち着く。そう、傍目から見たら可愛くはないのだ。俺の色目が可愛いと判断するだけである。
「そう? まぁ、とにかく行こうか。あ、これお土産」
俺はイツミくんの言葉を軽く流して、手に持っていたビニール袋を渡した。
先ほど少し落ち着いたばかりだったが、透けて見えるチョコレートのパッケージに、ほんのり嬉しそうな顔をする恋人が可愛く見えないのなら、色目のない人生などいらないとさえ思える。俺という奴はなんと単純な生き物なのだろう。
「サンキュ」
短く礼を言うイツミくんに、普通の顔をしているのが難しい。俺は誤魔化すようにバイクへと近寄った。
そして例の匂いが再び俺の鼻を掠めたのだ。
袋を受け取り立ち上がったイツミくんと、バイクを動かそうと動いた俺がすれ違った際のことである。
二度目に嗅いだその時、不意に何かが降りてきたみたいに、俺は脳裏でその匂いに名前を付けたのだ。
「……化粧品?」
俺はポツリと呟く。
その匂いは化粧品のような、石鹸のような、あるいは香水のような……おおよそ、男が身にまとう匂いではなかった。
俺はすぐに振り返り、イツミくんに手を伸ばす。
襟首を掴むと、イツミくんを強引に引き寄せた。イツミくんが何かを言う前に身体を密着させ、その匂いを嗅いだ。
「ねぇ、これ、何の匂い?」
イツミくんが少しむせても、俺は襟首を離さない。恋人にデレデレするのも簡単なら、もしもの可能性に嫉妬するのも簡単だ。
少し低くした声に、イツミくんは苦しそうな声で尋ねる。
「……なに……?」
「この匂い、化粧品みたいな」
答えづらそうなので手を離すと、再びイツミくんがむせてから答えてくれた。
「知らん」
「知らんって……」
「女いねぇし、おふくろも……あ?」
母親といった時点で、何かに気がついたらしい。
イツミくんは少し俺から離れると振り返った。
「なぁ、嫉妬?」
「……答えになってないんだけど」
「なぁ?」
チョコレートを渡したときより嬉しそうにニヤニヤするイツミくんが憎らしい。ここにきて年上の余裕など俺にはなかった。
「そうだけど、その匂い何?」
イツミくんくらい素直に答えてみると、イツミくんが笑う。楽しそうというより嬉しそうが勝つ笑顔に、俺はかわいいなと思いながら、努めて不満そうな顔をした。
「この前、おふくろがおいてったんだよ、薔薇の石鹸」
イツミくんの実家は、イツミくんの住んでいるマンションからとても遠い場所にあった。イツミくんの通う学校が、実家から遠いためだ。
一人暮らしをしているイツミくんは、実家に帰るのは面倒だといってあまり帰りたがらない。だから、たまにイツミくんのマンションには家族訪ねてくるのだ。
つい最近も、誰かが来るといってデートを断られた覚えがある。
どうやら、その誰かが母親だったらしい。
ショッピングセンターにつき合わされ、色んな香りの混じった石?屋に連れて行かれ、購入。最後にイツミくんの部屋の石?を一つ二つ、すり替えて帰ったそうだ。
イツミくんは笑いながら、楽しそうに説明してくれた。
お陰で、イツミくんは今、薔薇の石?と格闘しているらしい。
「でも、前はぜんぜん気にならなかったけど」
デートは出来なかったが、イツミくんは母親が来たとき以外は、コンビニ皆勤賞である。今日以外にも、イツミくんは俺と会っているのだ。
「そりゃ、風呂上りでもなけりゃそうそう……」
あまりに楽しかったのか、イツミくんが墓穴を掘った。
風呂上りでもなければ、しない匂いがどうして今、しているのか。
続きを言えなくなったイツミくんに、今度は俺が笑う番だった。
「そうかーなるほどね、そうか。風呂上りでもなければね、そうか。俺のバイト時はともかく、朝もかー、そっか」
ニヤニヤが止まらなくなった俺に、イツミくんはやはり素直な捨て台詞をはいてくれるのだ。
「悪いかよ、楽しみにしてたんだよ……っ」