「もしも、叶丞が記憶喪失になったらどうする?」
良平がワンコに肩を揉ませながら、余計なことを言い出した。
客が来たときに使っている応接セットでトランプタワーを作っていた十織が鼻で笑う。
「なんの冗談だ」
いつも通りのクールな反応に、ほんの少しだけ期待してしまった俺は心の中でがっかりした。
俺が心の中でがっかりしながらコーヒーをマグカップにいれていると、十織よりも早くトランプタワーを作ってしまい、暇を持て余していた一織も笑う。
「刷り込みをする」
「あ、それいいなー」
まったくよくない。なんの刷り込みをされるんだと記憶を失っていないのに震えてしまいそうである。一織に賛成した良平はおそらく俺に多額の借金でも作るのだろう。そして、俺に金を出させるのだ。恐ろしい。
「残念ながら、研究所が記録つけとるさかい、刷り込みは難しいと思うで。ちゃんと詳細教えてくれはるやろし」
「現実がつまんねー。こういうのは妄想を楽しむべきだろ。なぁ、おひーさん」
「そうだな、りょーへーくん」
なんとも白々しい様子に、俺はマグカップを置いて、逆に二人に尋ねる。
「ほな、自分らが記憶喪失になったらどないするん?」
「良平さんは喪失しない」
「兄貴だってしねぇよ」
良平と一織にはワンコと弟という味方がいるようで、俺と違って訂正が入った。しかし、訂正を入れられた二人は、その味方を無視する。
「そうなったら、この前の魔導書代は踏み倒す」
「何処まで忘れるかはしらねぇが、さっぱり忘れたら楽だろうな」
良平も一織も忘れてしまいたいことがあるようだ。
良平の忘れてしまいたいことはさておき、一織などは大変重たい話である。それを聞いた十織が動揺のあまり作りかけのトランプタワーを崩した。一織の忘れたいことは十織……ひいては二人の家族が関わっている。それは動揺してトランプタワーを崩した上に、すがるように見つめてしまうだろう。
一方、良平のワンコである青磁は、良平本人に記憶喪失になるといわれても余裕綽々のようで、良平の頭をゆっくりとその手で倒していた。
「青磁は余裕さんやな」
「別に、忘れられたところで良平さんが良平さんである限り、俺はついていくだけだ」
「邪険にされるとか考えねーんだなー」
他人に言われたところでなんということもないが、本人が言うとダメージは計り知れないものがある。良平の言葉に青磁が固まった。勝手についていくと決めていても、邪険にされるのはつらいのだろう。
「まぁ、俺好みの犬は一人しかいねーけど」
「ああ……ご馳走様です」
俺は、そっと良平と青磁から目を離して、一織と十織に集中した。目を離す前に、青磁が良平に後ろから抱きつき、鬱陶しがられていたのは気のせいだろう。
カップルのイチャイチャを見ないために目を向けなおした一織と十織に先ほどと変わった様子はない。強いて言うなら、十織が少し落ち込んでいるくらいだ。
「おひぃさん、ちょっと弟さんのフォローしたってよ」
「さっぱり忘れたら、アレを追いかけるようなことはねぇな」
十織が、アレといって指差された俺を見てから一織を見て安堵のため息らしきものをついた。
「アレとの関わりがきれるのはすげぇいいな」
十織は俺に対して反応が辛すぎるのではないだろうか。悲しみに心が凍えそうである。
「ねーの? あれほど追いかけておきながら?」
ワンコとイチャイチャし終わったのか、イチャイチャしながらなのか、また良平が余計なことを言う。
「そうだな、好みじゃねぇし」
一織がちらりとこちらを確認し、ため息までついた。俺の外見がまずいがゆえに惚れないような反応はやめてもらいたいものだ。一織の好みが特殊なだけで、俺にまずい点があるとすれば性格くらいである。外見は誰が見たって普通のはずだ。
「まったく知らねぇ顔しそうだし」
「ああ……」
良平が心底納得したような声を出した。俺の周りの人間は、俺を勘違いしているとしかいいようがない。
「さすがにせぇへんて……なんや、その疑いの眼差しは」
トランプを片付け始めた十織も、ソファにふんぞり返っている一織も、またマッサージを再開した青磁も、青磁にされるがままの良平も同じような目で俺を見る。視線が痛い。
「ちゃんと説明したるよ、さすがに。忘れられたら寂しいさかいなぁ……」
しみじみと呟いてみたが、はいはいという空気が漂う。
「ちょっとくらい信じてくれてもええんちゃうん?」
「まぁ……なんだ。記憶は喪失しないにかぎるな」
最終的には無視までされてしまって、本当に寂しい限りである。
コーヒーも飲んでみると心持ちいつもより苦かった。