Hard luck


その日の彼はついていなかった。
朝から雨は降っていたし、寮には早朝に戻ろうとしたら寝坊をするし、湿気で苦戦した髪のセットはやはり雨のせいか、きまらず、気に入らない。
早く寮に帰りたいというのに、厄介なことになついてくる舎弟にはついてこられるし、そうなると電車にも乗りづらい。その上、寝坊をしたというのにまだ眠い。明らかに寝すぎだ。
コンビニで買ったビニール傘も、空間を埋め尽くすように降っている雨には適わない。足元は既にぐしゃぐしゃである。
どうやって舎弟を置き去りにしたものか、考えている間に絡まれる。
雨が降っている上に、凶器になりそうな傘までもっているというのに、どうしてこんなところで襲ってくるのか。馬鹿なのではないのだろうか。苛立ちながら、彼は傘を放り投げた。
水たまりを蹴散らし、長めの髪をたまに右手でかきあげながら、いっそのこと丸坊主にしてやろうかと彼は思った。
初めて染めた髪の毛も、そろそろ根元から黒くなってしまい、染め直しが面倒だと思っていたことであるし、いっそのこと、そちらのほうが染め直しの面倒もなくていいかもしれない。
帰寮する前に、バリカンでも買ってこようか。彼は口角を上げ、右足で絡んできた男の一人を蹴った。
視界が悪かったせいで目測を誤ったのか、それとも足場が悪かったせいなのか。彼が蹴った男は見事に吹っ飛んだ。
どこに飛んでいったかということを確認しないで、男の仲間だろう人間と戯れていると、男が吹っ飛んでいった方向から、誰かがゆっくりと歩いてきた。
彼はそれを視界の端に捉えていた。
相変わらず雨は降っており、激しくなることはあっても、止む気配をさせないので、視界は最悪だ。
しかし、彼の目には、はっきりとゆっくり近づいてきた男が見えた。
ピンクと赤だった。
服はそれに合わせたのか、雨のせいなのか、黒くて落ち着いた感のあるもので、ピンクと赤の主張をまるで無視したシンプルさだった。
「あ、兄貴…っ!?」
彼の舎弟が悲鳴を上げた。
彼は、舎弟の悲痛な悲鳴よりその男が気になった。
男は次から次へと彼と舎弟以外の人間……彼に絡んできた男たちを蹴り倒す。
雨の中で、視界も悪ければ足場も悪いだろうに、身体の軸がまるでブレない男の蹴りは大変安定した威力を持っている上に、とても綺麗だった。
あっという間に他の人間は蹴り倒され、気がつくとその場には彼と舎弟とピンクの男しか立っていなかった。
しばらく彼は男を見て、気がついた。この男は親切で人の喧嘩に割り込むような質ではないだろう。直感だった。
では何故、男は彼と舎弟以外を蹴り倒したのか。
答えはすぐに解った。男が蹴り倒した人間を辿ると、原因であろうものが見つかったからだ。
傘が転がっていた。
傘の近くには男に似合うだろう、赤いMP3プレイヤー。MP3プレイヤーが見えたのは、奇跡に近かったが、その時の彼には何故かはっきりとそれがMP3プレイヤーに見えた。
視界最悪の雨の中、水溜りに沈む赤いMP3プレイヤー。
近くに倒れ呻いている人相の悪い男。
その男は、彼が蹴り飛ばした男だった。
ああ、あれがぶつかったんだな。
理解すると、彼は口を開いていた。
「……悪い」
「…あれを飛ばしたのはあんたか」
髪は派手であるし、容姿も派手な方だろう。それなのに、雨音に交じる声は、落ち着いている。
近づいてきた男に慌てたのは、彼の舎弟だった。男が彼を他の人間と同じように蹴り倒すと思ったのだろう。
「ああ、あ、あに…てか、水城さん!」
舎弟が慌てる中、声も、落ち着いているのだな。なんとなくぼんやりと、彼は思った。
「謝ってもらったし、八つ当たりもした。…とりあえず、喧嘩割り込んで悪いな」
「いや、こっちこそ」
条件反射で答えた。
すると男が、少し、笑ったように、見えた。
彼は、何故か急に自分の格好を恥ずかしく思った。
雨に濡れている。それはお互い様だ。
しかし、彼は今、とある事情で普段とは違った格好をしている。
髪も金から黒になりかけている。
中途半端な自分自身を、彼は恥ずかしく思った。
男がカバンから一枚のチケットを取り出す。
「詫びっていっちゃあなんだが、まぁ、気が向いたら、来いよ」
押し付けられたチケットには何処かの住所の書かれており、カット、パーマ、カラーといった単語の横に割引率を示す文字が踊っていた。
彼に慌てて挨拶をしたあと、舎弟は立ち去る男の背中を追った。
彼は、これ幸いにと駅前で服などを買って、服屋で着替えて電車に乗った。
「……やべぇ、かっこいい……」
濡れた割引券を握り締めたまま、彼、水城十夜(とおや)は呟いた。
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