「ちょっと待て」
「この状況でか」
帰ってきたときは、すこぶる機嫌がよかった。鼻歌が自然と出て行きそうなくらいだ。
腕時計を机の上に置いた時点でその機嫌の雲行きは怪しくなる。
時計を置いた数十センチ先に、一冊の本があったからだ。
その本のタイトルが目に入った瞬間、機嫌は下降した。
「四十八手ってなんだ」
「マンネリからの脱却からは、ちょうどいいと思って」
「マンネリするほどしてねぇから」
本はタイトルだけではなく、雰囲気すら怪しく、日本語ですらない。何処で買ってきたかを尋ねたいものである。その上、俺はその本を買った覚えもなければ、机の上に置いた覚えもない。
服を着替えに寝室に向かう前に、俺は足を止めた。
俺の今までの経験から、寝室のドアを開けてはならないと身体の奥から警告が響いているように感じる。むしろ、寝室のドアを空かないようにしたほうがよいのではないだろうか。そんなことまで考えるくらいだった。
足を静かに一歩後退させ、回れ右をする。目に入ったソファがこっちへ来いよと誘いかけているようだ。
俺はその誘いにのり、静かにソファに身を寄せる。
何故だかとても、疲れていた。
「つうか、なんでまっすぐこっち来なかった?」
俺がソファの上で疲れていたら、俺の嫌な予感は、形を持って現れる。それは宗崎吾雄という名の災いだった。
宗崎は靴を持ったまま、そろそろと寝室のドアを開け、俺を発見すると、その手に持った靴を玄関口へ持っていく。そのあと俺に振り返って飛び上がった。
空を滑るという言葉を体現したようなジャンプで、俺の元へ飛び込んでくる姿は、体操の選手も十点をくれることだろう。
俺はそれを見た瞬間に諦めという言葉が点滅した。
「嫌な予感がしたからだ」
そうして俺は、宗崎に押し倒され、ソファに身を預け、このくだらない問答をすることとなったのだ。
「嫌な予感ごときに負けてんじゃねぇよ! 俺がいるって感じるならすぐさま脱いでくるぐらいの余裕見せろよ」
「嫌な予感がお前だという自覚があるのか。というより、裸でドア開けられて嬉しいのかお前は」
「すっげぇひくけど、やる気は少しも損なわれねぇから。いい身体してるよな、牧瀬」
押し倒され馬乗りになっている人間に言われると、これほど危険を感じる言葉はない。
俺はゆっくりと身体を動かす。宗崎の拘束はゆるい。だが身体の上にいる宗崎から一時的に逃れることは出来ても、自らに降りかかる不幸からは逃げられそうもなかった。
「損なったとしてもやらねぇけど」
「やれよ。なんならセクシーに脱いで……いや、脱がすほうが速いな」
言うが速いか俺のベルトにかかる手に、俺の右手が動く。
狙いは顎の下だ。
宗崎は左手でそれを受け、ベルトから手を離そうとしない。
「そういうのも嫌いじゃねぇし、受けて立つけど、今日はこっちがいい」
「まず下半身から脱がそうとする即物的な奴とはそっちも願い下げたい」
「またまた。やる気になったら、すごいの知ってんだからこっちは」
腹の立つことに、何度かそういった場面と出くわしたことがある。そのとき、例外なく、やる気になってしまい、後に風呂場で悔やんだものだ。
俺の後悔を知って知らずか、宗崎は俺のベルトを外し、前をくつろがせた。相変わらず手が早い。
「……せめて、もうすこしその気になる誘い方をしてみせろよ」
少し止まった手が、柔らかく、ゆっくりと触れる感覚に、俺は舌打ちをした。提案を間違えてしまったようだ。
宗崎はどちらかというとこういったお誘いのほうが上手である。それを最初からしないのは、本人曰く、俺の自主性に任せたいからであるそうだ。この状況を考えると、自主性も泣いて逃げるだろう。
「なぁ、久々だしいいだろ……?」
わざわざ身体を俺に倒し、耳元で囁いた宗崎はそれでも手を止めない。すでにその手は下着とズボンの端を握っていた。
「よかねぇよ」
そうはいうものの、こうなってしまえばほぼ宗崎の勝利である。
ため息をつくと、それを了承ととり、宗崎は身体を起こして俺のズボンと下着を下した。
「……四十八手だけは絶対しねぇからな」
「頑張れば制覇出来るって、牧瀬なら」
あれは無理だとその本で、無駄に男前な顔を殴ってやりたいくらいである。
そして、俺のいかんともしがたい夜は更けるのであった。