狂いない一秒


「きちゃった」
気分は上々な晃二のいつも通りのおちゃらけた態度は、逆に、皐の堪忍袋の緒を切らす。
「……」
「何、怒っちゃってるのー?」
「…仕事は?」
すぐに殴りかからなかっただけマシだ。
皐は無言でマンションの扉を開けたまま、微動だにしなかった。
「んー?やめてきちゃった」
海外だ。
皐が心底嫌がって、しつこいほどやめてくれと頼んだのにも関わらず海外に行った晃二は半年もせずに帰ってきた。
真っ先に帰ってきたのがこのマンションなのだから喜んでもいいはずだった。
けれど、こんなに気軽にいつもの調子、ふざけた態度で帰ってきたら、誰だって腹が立つ。
たとえ、付き合いが長い恋人であっても。
「…やめた?そう、やめた…」
「うんうん。だから、ちょっとお世話になっていーい?」
よかねぇよ。
返事の変わりに一発殴って、男がよろけている間に彼はドアを閉めた。
当たり前である。
住所不定、無職、成人男性。
とんだ厄介者だ。
それがニコニコしながらマンションの部屋に上がりこんできて、更にワンルームマンションのソファーベッドに居座っている。それが恋人だというのだから、何をいっていいものか。
皐は溜息だけついた。
晃二は昔から変わらない。
いつもフラフラしているし、いつも楽しそうだ。
大学を卒業して教師になった。
それに遅れるようにして、皐も教師になって、気がついたら、晃二は教師を辞めて大学の先輩に呼ばれ、海外に行った。
嫌だといったし、ダメだといった。
人の言うことなんて七割きいていないんじゃないだろうか。そんなことを思いもした。
結果、晃二は住所不定、無職、真夜中にいきなり現れる。
顔を見た瞬間は、正直なきそうになった。
皐は晃二とまめに連絡をとっていたし、昨夜も明日も仕事だなんて笑ってメールをしていた。
今夜と昨夜の短い間に何があったか知らないが、いるはずのない人間がそこに居る事実が、皐を泣きたくさせた。
「ねぇ、まだ怒ってる?」
「当たり前」
泣きたくなったその瞬間、晃二はいつもの調子で笑う。
『きちゃった』
何が、きちゃった、だ。
「でも、ねぇ。明日には」
皐が怒っていようが、なきそうになろうが、晃二はマイペースで。それでいて、容赦がない。
「明日には、いなくなるから、機嫌直して」
「……は?」
「だから、明日にはいなくなるから」
「なん…で…?」
ふらふらしていて、曖昧なことをいうし、すぐふざけるくせにこんなことばかりは本当のことしかいわない。
いつも彼の心臓をおかしくさせる恋人は、それでも笑う。
「あ、この世からとかいう意味ではないよ?もちろん、海外にも行かないよ?」
では、何処に行くというのだ。
尋ねたいが声が出ない皐に、晃二は続けた。
「でも、暫くは会えないよ、また」
晃二が海外にいたのは半年もなかった。
なかったけれど、それに近い月日、晃二は皐の傍にいなかった。
毎日寂しかった。
メールがくると、電話がくると嬉しいけれど、寂しくて。
着信を見るたび溜息をついた。
大嫌いな自分自身の名前を、更に嫌いな呼び方で呼ぶ晃二の声を思い出すたび、近くにいないことが切なかった。
辛かった。
いつ、仕事を辞めてしまおうと、そんなことばかり考えてしまう自分自身が心底嫌で、そんなことを考えさせる晃二が嫌いにもなった。
「ねぇ、だから」
機嫌を直してと、晃二はいう。
無理な相談だ。
無表情になった皐に、晃二はそれでもにこにこと笑っていた。
「ダメかなぁ。怒ったままの顔でも愛されてるって感じるからいいけどね?でもねー今度はいつ会えるか解らないし」
「…仕事…」
「うん」
「やめたん…だろ?」
「そうね」
「じゃあ、なんで?」
皐がなんとか尋ねた言葉は、晃二の笑顔に消される。 「違う仕事始めるから」
「……」
今度こそ、何も言うことが出来ない。
皐は眉間に皺を寄せる。この一日にも満たない時間で何をすれば晃二は思いとどまるのだろう。
きっと、晃二は何をしても思いとどまらない。
「だからさ」
晃二が手を伸ばす。
皐の肩を触ったあと、腕に手を滑らせ、そのまま掴む。
皐は晃二に引っ張られ、晃二の腕の中に納まった。
「半年分ほど、くれない?」
何を?と聞く前に、奪われる。
海外に行った分なのか、これから半年分なのか。
解らないけれど、皐は抵抗しなかった。
できることなら、これから一生分をくれればいい。
いや、何もいらない。奪われてもいい。
ただ、傍にいてくれればいいのに。
…なんて、強盗をマンションにいれてしまったものだ。
次の日の朝。
宣言どおり、晃二はいなかった。
今度は一体いつ帰ってくるのだろう。
あの男はいつまでも、皐が一人で待っていると思っているのだろうか。
いや、あの薄情で残酷な男のことだ、思ってはいまい。
なんとなく、そう思いながら、身体が動かなかった皐は欠勤するために職場に電話をする。
ああ、声も掠れて、風邪という言い訳が使いやすいな。
なんて、思いながら。



晃二が再び皐を尋ねてきたのは、皐の勤める学校が文化祭で盛り上がっているときだ。
高校生の中に混じった晃二はまるで、その一部であるかのようだった。
「ただいま」
呑気にただいまなどというので、皐はまた呆気に取られた。
「シ、ネ」
思わず言ってしまったのも仕方ない。
「やだ、ひどーいつめたーい」
「当たり前」
「ははは、ほんと、ひどーい」
爆笑している様子は憎らしいが、本当に死んでしまったら毎日毎晩、毎時間、毎分、毎秒、数瞬。
すべての時間を無駄にせず死んでいくのだろうなと皐は思う。
晃二を失うことはただの致命傷だ。
癒す術は、知らないし、知る必要もないと思う。
狂ったように生きて、狂ったように死ぬんだろう。
今以上に。
なんとなく、皐はそう思っていた。
「暫くご厄介になってもよろしいでしょうか?…できるなら、一生」
晃二がそんなことを、いつものように笑っていうから。
皐は、なきそうになりながら。
「そうだな、一生なら」
そう言うしかなかった。
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