彼がそこに通わなければならなくなって、何度目の放課後だっただろう。
来る日も来る日も、彼は祈っていた。
どうか、あの方が来ませんように。
同時に願ってもいた。
どうか、あの方が終わらせてくれますように。
かくして、タスクは彼の祈りを砕き、願いを叶えた。
「会長が襲われたのはもう聞いたな?」
彼と向かい合い、今日も学園内の噂話などを話していたタダシが、その席を譲る。代わりに彼と向かい合うタスクは、彼を威圧するでなく、面倒臭そうな声で言う。
「今回は他の生徒も見ていたからな。話が聞こえるのは早かっただろう」
彼は昔、タスクに助けられたことがある。その時と今と、タスクの態度は変わらない。
彼にはそれがとても悲しかった。まるで、どちらの出来事もその程度と言われている気がしたからだ。
しかし同時に、こうも思った。
あの会長だって、その程度なのだ。
とても馬鹿な考えだと彼は思う。だが、心の底で嬉しい気持ちがよぎるのだ。
あの会長も、その程度でしかない。
「これで三度目だ。何か言うことはあるか」
彼があらぬ喜びを感じていたのもつかの間のことだった。
あまり広いとは言えない部屋で、向かい合っているタスクの声が、無感情に響く。何故か先ほどまでの面倒臭そうな声と違って聞こえ、彼は思わず顔をあげる。
彼はすぐに後悔した。
「ないか」
タスクは本当に面倒臭そうな顔をしていたのだ。ただ、ここには一応確認をしに来たのだと言わんばかりで、声に何か色を乗せることすら面倒になったという体である。
彼に何も期待していないと、ありありとわかる態度だった。
タスクに席を譲り、その隣に座っているタダシすらいつもの様子で、携帯の液晶画面をいじっている。
誰が見ても、二人の興味関心は彼にはないといっただろう。
彼もそう思った。
「ないようだな。以降、ここには来なくてもいい」
これ以上、問答する必要も、緊張してうつむき続ける必要もない。会長の話を聞いて罪悪か恐怖かわからない感情で体を震わせることもなくなるのだ。
いいことであるはずなのに、彼は慌てる。見捨てられたと感じていた。
「……っ会長は、大丈夫だって」
何故だか視界が不鮮明になってきて、声も出しにくかったが、彼はなんとか『何か』を言った。言わなければ、伝えなければ、永遠にタスクとタダシは彼のことなど、どうでもいい存在にしてしまう。
「へぇ」
興味のなさそうな相槌に、彼はさらに焦る。
タスクに助けられてからずっと、彼はタスクに憧れ続けた。期待されてもいないのに、失望されることを恐れていた。
「すごい人だから、僕らみたいなのがどうこうしたってっ」
実際そうだ。彼は思い出す。生徒会長のアオに、一番最初に襲い掛かった彼は、人に手を上げたこともなければ、意図してぶつかったこともない。襲い掛かるといっても、引け腰で走っていって何もない廊下で手を突き出すようなことしか出来なかった。
アオは彼を避けて、何が起こったか解らないといった顔をした後、もう一度襲い掛かった彼に、首を傾げたくらいだ。
襲われたと解らぬほどの彼の攻撃を、襲われたと判断し、謹慎処分にしたのは、アオが他の人間につい最近まで襲われていたことと、彼がアオに一生懸命罵ったからである。
少し気持ちを落ち着けるための休みと、最近の事件とかかわりがあるかを調べるためのものだ。
「だって委員長は迷惑してるって、会長が無理矢理従わせて……!」
彼の言うとおり、タスクは迷惑している部分もある。しかし、アオが無理矢理タスクを従わせたことはない。その上、タスクが迷惑だからといってアオを本気で嫌がったこともなかった。
それでも、彼はアオを罵ったときより一生懸命訴える。
「委員長が、委員長じゃなくなったのに会長の傍にいるのはおかしいって、何かあるごとに会長を守るのは、会長がわがままいって脅して従わせてるって、身体も使って取り入ったってっ」
彼の言うことに、タダシが携帯を持ったまま笑い出す。その隣のタスクは、眉間に力を入れて、空気を吸い込み、吐き出した。
長い長いため息が部屋に落ちる。
「……誰に聞いた?」
「あ、え……?」
「誰かに聞いたようにしか聞こえなかったんだが」
彼は焦っていた。どうしてもタスクを引き止めたかった。
それは、成功した。
しかし、タスクの言葉に、彼は言ってはいけないことを言ってしまったことに気がつく。途端に、先ほどとは違う意味で、彼は寒さを覚えた。
「う……噂で……」
「確かに、言ったとおりの大体のことは噂されているな。だが、身体を使って取り入ったってのは初めて聞く」
「宗崎の権力を使って圧力かけてるとか、むしろタスクが襲われたとかいう話はよく聞くんだけどねぇ」
再び俯いてしまった彼に、タスクはいつもより、ゆっくりとした速度で問う。
「それが本当に噂だったとして。あれは本当にすごいか。確かに規格外だが、何人にも襲われて、それが普通だって言うのか」
遠くからしか見たことのない生徒会長の宋崎吾雄とは少なくとも、彼にとってそういう存在だ。
規格外で何でもできて、何でも手に入れられて、ちょっとくらい何かをしたところで、そんなものは気にとめもしない。
「あれはわりと学園内の生徒を大事にしてる方だ。血の気は多いし、すぐに殴り込むし、気が短い。だが、大事にしてるもんに何回も襲われて、悪意向けられて、嬉しいのか」
嬉しいとは、彼も思わなかった。けれど、アオが何かを思うような出来事のようには、やはり思えない。
彼は、俯いたまま、それでもタスクの声を聞いた。
「まぁ、あれの考えてることはあれにしかわからねぇ。言わねぇってことは言いたくねぇんだろ。どういう結論でそうしてるかは置いておいてだ」
大きな大きなため息が、吐き出される。
こんなにもため息を吐く人だったろうかと、彼はまた顔を上げそうになった。
「で、お前らは俺にどうして貰いたいんだ。噂がどの程度真実なのかは、噂自体がよくわからねぇ俺には判断できねぇし、本当のことを聞きたいならあれに襲い掛かるより俺に聞いたほうがはやい。それともあれに手を引けとでも言いたかったのか」
呆れているのかもしれない。
彼はそう思い、顔を上げるのはやめた。タスクに呆れられている姿など、彼は見たくなかったからだ。
「あれはな、自分勝手に振舞うし、好きなようにする。だが、無理強いはしねぇよ。決めんのは俺なんだそうだ」
呆れるどころか、タスクが怒っても仕方がないことをしている。アオがタスクとどういう関係にしろ、アオやタスクの言う通り、決めるのはタスクなのだ。
「ごめん、なさい……」
彼は、自分自身の口からこぼれていった言葉を聞いて、顔を覆った。
彼は会長を襲ってから後悔ばかりしている。罪悪感もあった。
自分自身がしたことが、仲間がすることが、いいことであるとは一度も思ったことがない。
身体中の血を何処かに置き去りにしたような寒さと、それが一気に戻って来たような羞恥で、やはり彼は顔を上げられなかった。
「お話し、します」