晃二の近くに居るようになって、すっかり忘れていたことがある。
「灰谷くんって無口だね」
いつも大体俺の近くに座る女が俺に言った。
講義が被っているときは、いつも大体その女が傍にいるし、話しかけてくるから、そいつとしては親しいつもりだったのだろう。
俺は特に拒否もしなければ、無視もしない。ただ少し、頷いたり、首を振ったり、挨拶をする。
当たり障りのない薄い笑みを浮かべ、ほんのわずか首を傾げる。
「絶対無口だって」
そうなっているのは、その女になんの興味も抱けないからだ。
その女が、美人だといわれる類であることも、気が強いことも、負けず嫌いであることも、おおむね好感をもたれやすい性質であることも、理解できる。
しかし、そういったものを理解したところで、俺の興味の範囲内にはいなかった。
「そうか?」
それだけ答えて、俺は席を立つ。
そうだよ絶対などと言葉を重ねる女の声を聞くとはなしに聞いていると、携帯が震える。
振動のパターンから、それが晃二からだとわかると、俺はすぐにそれをとった。
「晃二?」
『あ、さっちゃん?今日のおでぇとは、ちょっと中止していいかな?』
「ちょっとで中止か?おかしいだろ」
『そ?俺にはあることでしょ。普通でしょ』
「晃二の常識に照らすと……なくはないか」
女が俺を見上げて、驚いたように目を見開いている。
俺の声に対するものだろうか、それとも、こうしてしゃべっている俺に対してだろうか。
どちらも、この女に向けることのないものだ。
「それで、中止して何するって?」
高校時代に比べると、かなりしゃべるようになった。
だからといって俺の気性が変わるわけではない。
俺の声も、俺の言葉も、多くは晃二に費やされる。
幼馴染は何も言わずとも、相変わらず察してくれるし、付き合いのある友人の大半、晃二といるときよりしゃべらない。
それは、晃二ほど俺の言葉を要求しかないからだ。
晃二は俺の言いたいことも、したいことも察して有り余るというのに、言葉を要求する。それは、俺が『無口』だからだ。
俺が言葉を探し、声に出すという行為を強制したいのだ。
俺はそれを、晃二にのみ、よしとする。
『バイト』
「俺は、今日、バイトが休みだと聞いた」
『臨時』
「……約束は破るなとは言わない。だが、できるだけ守れ」
声が、平素より温度を失うのは、これもまた晃二であるからだ。
晃二には何をつくろっても仕方ないと、学んだ。
逆にいえば、何もつくろう必要がない。
『ごめーんね!ま、破るよねぇ。俺だから』
「そうだな、晃二だから。あと、俺だから」
『それもそうだ。俺、さっちゃんじゃないとしないよねぇ、これは。愛してるよーさっちゃん』
都合が良くて、軽い『愛してる』だ。
それでも、その言葉に未だ、心が動く。
「……今度はいつ」
『今度?まだ約束する気になんの?すっごーい、さつきちゃんすっごーい!んじゃま、帰ったらね』
「それ、いつ」
『あ、さすがに把握されちゃってるー?時間にすると、まぁ……四十八時間越えるかな?日にすると三日くらいあとかもねぇ』
「シネ」
電話を切ると、驚いて開いた口がふさがらない女を放って俺は次の講義をサボるため歩き出した。
晃二がバイト休みのときにデート中止とかいうから、この講義は随分抜けている。何回か聞いた感想からいうと、さして大事でもない講義だ。取り消しを行うことにしよう。
晃二と居るようになって、すっかり忘れていたことがある。
俺は俺の興味の範囲外にいる人間に、俺が思っている以上になんとも思っていない。
晃二といたせいで、外面だけはそこそこつくろえるようになってしまったが、態度は一貫して変わっていない気がする。
晃二といたから、すっかり、忘れていた。