高校を卒業するとすぐ、親戚のケーキ屋で働きながら、フランス料理の店でバイトを始めた。
ケーキ屋に住み込み、ご近所のフランス料理の店と上手いことシフトを組む。
親戚のケーキ屋はしばらくもしないうちに軽食も出す店になったので、結局毎日調理にまみれている。
最近凝っているのはアイシングの細工で、クッキーやカップケーキを飾ることに夢中になっている。
おかげさまで、お持ち帰りの焼き菓子は女の子に大人気だといって、ケーキ屋の店主は大喜び。フランス料理の店のシェフはその器用さをぜひ我が店にもと、休憩時に来てはお茶を飲んで帰る。
フランス料理の店では、コック見習いとして入ったが、接客も仕事のうちだということで結局ウェイターとして働いている。
残念ながら顔の威力もあって、ウェイターとしては人気がないが、酔っぱらいを追い払うのにはいいということと、夜の常連さんには俺くらいの方がいいということで、もっぱら夜に給仕をしている。
シェフは海外にいっていたこともあるということで、たまに悪戯にフランス語を話しかけてくるのだが、伊達に金持ち学校を卒業していない俺は、親戚と親戚がウェイターのバイト募集した際にやってきた高雅院雅でその悪戯を返している。
親戚は英語はイマイチなのだが、フランスにはあこがれのパティシエがいるということで遊びに行ったり、滞在したり、勉強しに行ったりと、結構な確率でフランスに旅立ってしまうため、フランス語は出来る方だ。
高雅院は親の跡を継ぐかもしれないと、中学時分から色々やっているようで、フランス語をそれはそれは流暢に話す。
俺は完璧に家族や友人といった周りの人間に巻き込まれる形で、色々な言語をカタコトであったり日常会話程度に話せたりするのだ。
世界を飛び回るカメラマンと、家に引きこもってばかりいるようでワールドワイドな芸術家の元に生まれると、日常会話はいったい何を話したものなのかわからなくなる。実家に帰れば、日常会話は共通語ということで英語を話しているが、昔は父と母が色々な言語で喧嘩をするため、悪い言葉ばかり覚えたものだった。おかげで日本語は家庭内ではなく、家庭外で覚えてくることとなったため、小学生中学年くらいになるまで俺は無口なほうだったと思う。
言葉さえ限定しなければ、父も母もワールドワイドなだけあって、自分の意見を口に出すということにためらいがないため、よく話をする環境にあったのだから、今のようになるのはそうおかしなことではない。
口が悪いのは、恐らく、父と母の思い切りが良すぎ、クソミソ言い合う喧嘩のせいだけではないのだが、あれも一因だと思われる。
そんなこんなで言語にはあまり不自由していない俺だが、最近、チーフと親戚にやたらと海外留学を進められる。
曰く、海外でパティシエになってこないかと。
「フランス料理の店には、パティシエになろうと思って行ってるわけじゃねぇんだけど」
「……このいかにも健康には悪そうだが、繊細な飾りがなされたアイシングのカップケーキを見たらそれは言いたくもなるだろうよ。あのフランス料理の店の人、お前にフランス料理作って欲しいわけじゃなくてケーキ作ってもらいたいんだろ」
夏も冬も寒い事務所の来客用のローテブルにおいたカップケーキは少し柔らかなセルリアンブルー。円形のレースをイメージした模様と、白い花、少しのアラザンと、繊細な白い蝶の飾り。
「いや、これくらいはプロじゃなくてもできるだろ」
「プロといえるくらいこういうことをしてもらいたいんだろ、あのふたりは」
温めておいたコーヒーカップにドリップしたコーヒーをいれおわると、俺の分と一緒に持っていく。
俺は、ケーキをくるくる回して楽しんでいる人物にコーヒーを渡す前に尋ねなければならない言葉を思い出す。
「省吾、飯は?」
「……」
「飯は?」
「……」
「わかった、ケーキ返せ」
事務所に行く前に親戚の店に寄っていったから、それ以来何も食っていないらしい。
最近わかったのだが、俺の友人だか恋人だかよくわからない…とにかく、カテゴリーとして『鬼怒川省吾』としかいいようのない人物は、三度三度に飯を食う、ということをしない人間だ。
誰かが食べていれば釣られたように食べるが、忙しければ平気で食うことを後回しにする。
そう思えば腹が減っているなを、手持ちの軽食という名の菓子で終わらせがちだ。手持ちがあればいいのだが、最近はあまり入手していないらしい。
高校より時間の自由があるのか、仕事を入れすぎだ。
仕事が忙しいといっては事務所で寝るため、気がついたら、事務所に住んでいるようなもので、鬼怒川省吾という男はマンションにあまり帰らない。
ケーキを一向に俺に渡そうとしない省吾に、俺は鼻で笑って手を差し出す。
「お前の食生活がずさんなのはいいし、やりたいようにやって野垂れ死にでもすればいいと思うが…俺の楽しみを奪う権利はねぇ」
食べなければ食べ物は減らない。
減らなければ作れない。
そして、腐らせるくらないなら作らない。
俺は菓子ばかり作りたいわけじゃない。中華や、和食や、イタリアンも作りたい。
「今から作るのか…」
「飯は冷凍庫、冷蔵庫に煮物、メインディッシュだけでも作らせろ。あと添え物もだ」
「……メインディッシュは?」
ケーキに少し未練を残しつつ、俺の手にケーキをのせた省吾が尋ねた。
「豆腐ハンバーグ」
「……家庭的だな」
「もっと早く言えば、本格中華でもなんでも」
「いや、胃に優しいものがいい」
首を振った省吾は、料理はつくれないわけではないが、俺が調理禁止を命じている。凝り始めたら、俺が腕を振るう場所が少なくなってしまうためだ。
そのため、普段は出来合い品か外食しかしていない。
そして、大学生になってからというもの甘党を隠さなくなった省吾は、飯より甘いものである。
焼き菓子やケーキはあっさりというよりも、こってりという印象もあるし、バターやクリーム、チョコ、チーズなどは胃に重たいのだ。
「じゃあ、そこのコンビニで、豆腐と生姜買ってこい」
「了解した」
冷蔵庫の中はなんだかんだ俺が充実させてあり、野菜は潤沢に揃っていた。
「こんなだから、夫婦とかいわれんじゃねぇの…」
ふと、高校からの友人のからかい文句が耳に蘇り、俺はため息をついたのだった。