俺は、単純に浮かれていた。
バイトの先の生徒は飲み込みがよく、予定していた時間よりも早くに、仕事が終わった。
マンションに帰ると誰もいなかったが、電車に乗った時に今日は早く帰れるとメールを貰っていた。
小さく息を飲んで、心の中で祭りを開催しながら、さもすればスキップしそうになる足を諌め、溢れ出す鼻歌がこぼれていくのを止められず、夜道で人に振り返られても気にすることができなかった。
振り返った人間は、しばらく俺を見たまま時を止めたが、俺は気にせずさっさとマンションに帰り着く。
誰もいないのはわかっているが、電気をつけると、出しっぱなしになっている俺以外の靴に、ニヤつきそうになって、毎回、普通の顔をするのが辛い。
持っていた鞄をこたつ机の傍に置いて、一応カウンターキッチンになっている狭いキッチンに入る。
冷蔵庫を開けつつ、冷蔵庫から出したい飲み物の名前をリズミカルに繰り返す。
「ミ、ネラル、ミ、ネラル、ミネラルウォーター」
誰かに聞かれていたら微妙な顔をして、それが?と開き直るか、恥ずかしくなり、トイレに引きこもるレベルだ。
水を取り出すと、コップに開けることなく一気に飲む。
そう思えば、このペットボトルは未開封ではなかったな。そんなことを考えつつ、2リットルペットボトルを眺める。
そうこうしていると、ガチャッと鍵を開ける音がした。
「ただいま」
俺はペットボトルを持ったまま、おかえりと言おうとして、ハッとする。
なんだこれ、新婚か?
「……おー」
おかえりと言えずに、ペットボトルを片付けようとすると、何か飯の匂いのする高雅院が気がついたように、ペットボトルを見て言った。
「あ、悪い、それ、昨日そのまま飲んだ」
それに軽く頷き、冷蔵庫に戻す。
「いや、別にいい」
言ったあとで、気がつく。間接キスか。冷蔵庫の扉を閉める手が止まった。
俺は思春期か何かか、そんな、間接キスくらいとは、思うものの、どうしようもなく照れくさいのは気のせいか。
意識してはダメだ。負けだ。
そんなことを思いながら、俺は気を改めるように尋ねる。
「そう思えば、飯どうする?ああ、それとも、風呂先はいる?」
「いや、飯が先。古城がくれたからな」
そう言い、高雅院がこたつ机に何かをおいた。タッパーか何かが入っているんだろう。どおりで高雅院から飯の匂いがするわけだ。
「冷蔵庫から茶をとってくれ」
高雅院がそういうので、ようやく止めていた手を俺は動かした。
高雅院はその間に、カウンター越しにガラスコップや皿を手にとっていた。
そして、言う。
「なぁ、もしかして、ミネラルウォーターそのまま飲んだか?」
「い、いや?」
ごまかそうとしたが、シンクに一つもコップがないのなら、自然とその答えは導かれるはずだ。水は飲んでいないんだと言えばいいかもしれないが、それもなんだか苦しい言い訳のような気がした。
「ふうん」
高雅院はそれ以上何も追求せずに、こたつ机に食器類を置いて、俺に振り返る。
俺はまた、冷蔵庫の扉を手に、動作をストップしていた。
「ところで、チカ。三つ目の選択肢は?」
「は?」
俺が首をかしげて、思わず高雅院を見ると、高雅院がニヤリと笑った。
「……ご飯にする?お風呂にする?それとも」
そこまで言われて、俺の手は冷蔵庫の扉から離れた。
呆然と立ち尽くす。
顔が、熱い。
「わるい、冗談だ」
「……、……」
何を言っていいか分からぬまま、高雅院が他の荷物を自分の寝室に持っていったのを見送ったあと、俺は漸く冷蔵庫の扉を閉めた。
「無理……」