高校三年にもなると、ちらほら将来についての話が出てくるものだ。
しかし、その段階ではっきりとこれといえる人間は多くない。だから、大学は自分自身のやりたいことをやる、社会人になる前の猶予期間の一部だと雅は思っていた。
それでも将来像がぼんやりとでもあり、やりたいことが将来へと繋がる人間は、早めに行動をしたほうがいい。雅は物事に遅い早いはないと他人に言われたことがあった。確かにその通りである。だが、焦って失敗することはあっても、早めに行動して悪いということはけしてない。雅はそうも思っていた。
だから、学園で渡された進路希望表を埋められず、雅は悩んでいた。
「いや、だから、悩んじゃうくらいなら雅くんだけでもうちに入社してくれないかなぁって」
夏季休暇のある日のことである。クーラーの効いた喫茶店のスタッフルームに雅は呼び出されたのだ。
生徒会の引継ぎ作業をしながらのバイト合宿の途中である。雅は夏休み気分で進路のことなど忘れておきたかった。受験が辛いから忘れたいというわけではない。雅は何があってもいいようにと高等部に入ってからずっと準備していた。そのため、成績においては文句のいわれようがなく、大学も選び放題だろうといわれている。
しかし、雅は三年になってからの一番最初の進路希望表すら埋められぬままだった。
その雅を知って知らずか、雅の父親の上司は雅を呼び出し、会社説明会用の資料を机の上に置いたのである。
雅の父は幼馴染の十夜の父の部下だ。世間ではそうなっている。本当のところ、高雅院という家の歴史を紐解けば、代々水城家に仕えてきた従者の一族だ。時代柄、大きな声でそれを雅に継いで欲しいという人間は少ない。雅の家族も時代遅れだとそうはいう。
けれども、雅の父は水城の当主を主だと仰いでいるし、雅も水城の当主のことは『ご当主様』だと思っている。父がしたように、時代遅れだといいながらもその跡を継ぐことに、水城の当主に仕えることに否やはない。
雅がこのまま水城に仕えることになれば、十夜の一番近くに仕えることになるのは雅だ。そのこと自体は弟の世話をするようなものだと思え、悪いことのようには思わない。
けれど、雅の中にはぼんやりとこのままでいいのだろうかと思う心もある。流されているのではないか、これが現在の最良であるのだろうか。そう思う心だ。
それというのも、雅には目的意識がはっきりした人間が三人ほど近くに居り、色々、羨ましく思うからである。
一人は、もう一人の弟分である皐だ。その目的がたった一人の性格の悪い男だというのだから、随分危うく見える。しかしそれが、雅には眩しいときもあった。
もう一人は、計算高く守銭奴な親友の龍也だ。龍也の場合はこうあるべき自分というものがはっきりしているといってもいい。それはこうなりたい自分でもある。それに手をぬくということがない姿が雅にとって気持ちいいくらいだった。
最後の一人は、常に一生懸命だ。雅が見る限りではそうである。しかし、他人の話を聞く限り、雅の目がないと思っているところにいる姿をちらりと見る限り、彼は何事もないかのように物事をさらりとこなす。それと同じように、彼には自然なことのように父を、祖父を、殿白河という家がしてきたことを継いでいくと決めていた。たとえどんなに雅のことで一生懸命になろうとも、彼の将来の展望は変わらない。
その三人ともを、羨ましいと雅は思う。
だから、会社説明会用の資料を渡されても、人材として望まれても、雅は迷ってしまうのだ。
「せめて、大学三年くらいまで待ってくれませんか」
資料に視線を奪われたまま、雅は言葉を落とした。
雅の少し力ない声に、机の上にあった水城家当主は空調のリモコンを操作する。水城家当主は雅の声を空調の風のせいにしてくれたようであった。
「いや、大学には行って欲しいよ。たださぁ、今、雅くん、殿白河さんちの息子さんに言い寄られてるでしょ」
何故それを知っているのだと、雅は尋ねない。それくらいのことを何気なく知っている。それが水城家当主だ。
「それで、雅くんもまんざらじゃないんじゃないかなぁとおじさんは思うわけでね。それは別に恋愛って自由だからいいんじゃないかなとか、好きにしたほうがいいと思うし。ただ、殿白河さんちの息子さんもすごく優秀じゃない。しかも雅くんにただ事ならぬ熱の上げようだとかいうから、そうなるとほら、この目の前の優秀な人材をとられちゃうんじゃないかなとか思うわけだ。もちろん、雅くんがうちに魅力を感じないと思うのなら、とられてもしかたないとは思うのだけども」
雅は資料から目を離し、まっすぐと水城家当主の目を見た。
近所のいいおじさんとして、からかっている様子はない。水城家トップらしい余裕を見せる笑顔を印象付ける目は、雅を測っているように見えた。
先程、空調の温度と風量を調整されたはずであるのに、肌寒く感じるようで、雅は内心舌打ちをする。当主の目を見るだけで、雅はスタッフが安らげるようにと人一人が快適に暮らせそうな安らぎ空間であるスタッフルームが、色味がなく味気ないもののようにすら感じた。
「まぁ、単純な話、つばつけとこうと思って」
「……ただの高校生によくそんなことが言えますね」
いつもの水城家当主は十夜の父らしく、容姿は男前で気前のいい近所の主婦だけでなく、旦那方にも人気があるおじさんだ。その姿を微塵も感じない当主としての顔を見つめ、雅は無表情にぼやいた。
「ただの高校生じゃないよ。高雅院家の長男で、成績優秀で、一癖も二癖もある学校の生徒会長。それじゃだめかな」
雅は一度まぶたを閉じ、開けると一つ息をつく。
「正直に言ってくださって結構ですよ。他にもいるけど、知り合いだしとりあえずだと」
「そうだね」
雅が思ったとおりを言葉にすると、水城家当主はとても満足げに笑った。