また、イツミくんが微妙な顔をした。だが、俺はもう名前を言い直すことはなかった。
「親しみを込めて、弘人って呼んでみようか」
 名前くらいで親しくなるならお安いものだと思う。
「は?」
「うん、なんか、さっきの、悔しかったっていうか、妬いた」
 俺は正直者だ。
 そして、イツミ くんも正直者だったようだ。
「あれはダチで、や、つうか、あんなで?」
「あんなで。俺ってば結構ネガティブだから、慰めて」
 本屋の入り口付近でする話ではない。
 人に見られてしまうから、俺は少し目立たない場所に移動しようとした。
「ッ……弘人さん」
「なに?」
 現金だが、結構嬉しかった。
 思ったとおりに呼ばれることが嬉しかった。
 イツミくんは、所々真面目なようだから、きっと俺を敬称つきで呼んでくれると思っていたのだ。弘人さんだなんて、新婚家庭の旦那さんみたいな呼ばれ方である。
「呼べって、いったろ」
「うん、結構、嬉しいね。イツミくん」
「……くんは、やめろって」
「でも、こっちのほうがしっくりくるから」
 視線をそらすのは照れ隠しだと、ここ最近のことで学んでいる。
 そう思えば、イツミくんを真正面からちゃんと見たことない。今度じっくり見てみようと思いながら、漸く本屋に入店した。
 入り口付近は雑誌のコーナー。所狭しと並ぶ雑誌に、付録見本の数々。
 それを無視し、俺は迷う事無く奥に向かう。
 本屋に入ったとたん、フラフラとファッション誌のコーナーに向かったイツミくんを見送った後の行動だった。
 せっかく二人できたというのに別々の行動になっているが、本屋で常に一緒よりも、自分自身のペースで本を見て、たまに様子を見に行くくらいがいいのではないかと、俺は常々思っているため、それを実行したのである。
 俺の向かった場所は、実用書コーナーだ。ダイエットの本や誰かの恋愛の本がある中、掃除の本を手に取る。
「何か片付けたいのか?」
 後ろからイツミくんではない人間の声がして、俺は思わず肩を震わせた。
 後ろをゆっくり振り返ると、アルバイト先のコンビニの店長がそこにいた。
「あ、店長か」
「誰と思ったんだ。で、何片付けたいんだ?」
「いえ、片付けたいというか、本当に片付くのかなぁって」
「やってみろよ。できたら、俺にも薦めてくれたらいい」
「いやですよ、店長の実験に付き合うの」
 店長は、少しぶっきらぼうで無愛想である。だが、仲良くなると結構優しくて気さくな人だ。
「店長こそ、何買いに来たんですか?」
「好きな作家の本を探しているんだ」
「実用書出してるんですか?」
「実用というか……励ましてもらうための本だ」
 俺は店長としばらく会話を楽しんだ後、本を棚に戻しイツミくんを探す。
 イツミくんは変わらず男性向け雑誌コーナーにいた。
「イーツーミーくん」
「……」
「え、無視?」
 雑誌のページも捲らず、イツミくんは虚空を睨みつけていた。イツミくんが持っていたのはバイク雑誌で、俺も先日買ったその雑誌を、横から勝手に捲っていき、俺はある頁を指す。
「これ、俺の愛バイク」
「……」
 反応がまったくなかった。
 不機嫌がぶり返してしまっている。俺が本屋で適度に好きなようにしてしまったのは、裏目に出てしまったような気がした。
 俺がイツミくんの隣で考え込んでいると、後ろからまた、店長の声がする。
「お、デートだったのか?」
「店長早く帰ってください」
 振り返って適当に手を振ると、店長も手を振り返してレジへと向かっていた。
 俺の隣ではイツミくんが雑誌を閉じて棚に無理矢理詰めていた。棚の中に雑誌を詰める間も不機嫌な空気が感じられるほど、イツミくんの機嫌は悪くなっていた。
「弘人さん」
「はい」
「あんなで腹って立つもんだな。あんなで」
「はい?」
「妬いた」
 雑誌コーナーの一角。大人の趣味人たちが気持ち遠巻きに、イツミくんを避けるように立ち読みしている。その中でイツミくんの視線は雑誌のジャンルを示す仕切りの文字に固定されていた。
 だから、俺にイツミくんがどんな顔してるかわからないが、これだけは言える。
「カワイイの」
「は?」
 振り返ってくれたイツミくんは眉間に皺を寄せて不機嫌そのものだ。かわいいといわれたことより、たぶん俺と店長がイツミくんを放って置いて仲良くしているのが気に入らなかったんだと思う。
 それが、わがままだと思うよりかわいいが先立ってしまうのは、好感情のなせる技だ。
「ね、お昼ご飯、牛丼やめてファミレスにしようか。あそこなら、種類あるし」
 そうして、米が食べたいと言ったのにも関わらず、イタリアンファミリーレストランに行ったのは、そこが一番近かったからだ。イタリアンだって米を使わないわけじゃない。
 先に注文の品であるナスとベーコンのトマトソースパスタが来たイツミくんは、食べずに俺を待ってくれた。
 俺は先に食べなよと言ったが、イツミくんは頑なにフォークを持とうとしなかった。イツミくんの目の前のパスタがすっかり冷めてしまう頃、俺の頼んだ海鮮リゾットとペペロンチーノ、海草サラダのセットがやってきた。
「あんた、それを食べるのか」
 イツミくんはご飯とパスタのセットに、信じられないものを見るような顔をしたが、俺は気にせずに食べる。リゾットはウェイトレスのいうとおり熱かったがうまかった。
「おいしいよ」
「いや、そうじゃない。そうじゃなくて、ありえねぇ」
 やはり、イツミくんは俺を信じられない生き物を見るような目で見たあと、パスタを食べていた。
「それ、冷めてる? ごめんね、待たせて」
「別に。弘人さんが悪いんじゃねぇし、うめぇよ」
 冷めてしまった料理は、いくら美味しくとも美味しさ半減だ。冷たくて美味しいデザートでも奢れば、イツミくんに悪いと思う気持ちも少しはなくなるかも知れない。
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