「俺もぼんやりとでもそれが見てみたいです」
「悩め若人。それが仕事みたいなもんだろ」
友人たちと立ち位置が違うからこそ、ままごとみたいな恋愛もまだ大丈夫だろうと思っているところもある。学生の間、今の状態を続けるのもいいのではないかという考えも浮かんだ。
「じゃあ、悩むとして聞きますけど、店長は、その境地に達するまでどれくらいかかりました?」
「いや、こういうの人それぞれだろ。でも、参考程度なら……そうだな。結構時間かかったぞ」
「かかりますか」
「かかるねぇ」
俺に整理されている雑誌の女の子も、俺の悩みを知ったのか、小首を傾げてくれている。けして肯定してくれているように見えないのは、後ろめたい気持ちがあるからかもしれない。
「でも、好きだけで一緒にいられるわけでもないけど、それをおしてもあいつじゃないとダメだって思っちまったしなぁ。ここは素直になるのが、一番というか」
店長の声が一段明るく、そして照れくさそうな響きを持った。それが、なんだか少し、本当に少し苛立たしい。
「……真面目な話なのに、なんだろうこの惚気られた気分」
雑誌の整理をやめてカウンターに戻ると、照れ臭そうにしてはいるものの、今か今かと俺を待ちかまえている店長がいた。
「いいだろ?あいつかわいくってよぉ」
「え、惚気にうつるんですか?」
店長ののろけ話は長い。
俺は抵抗して嫌だと言って逃げようとしたが、店長に肩を掴まれる。
「ちゅーしてやるから、まぁ、聞けよ」
「店長、それ引っ張らないでくださいっつか、本気で、やめっ、浮気じゃないすか……!」
店長が業とらしいくらい唇を突き出し、俺を引き寄せようとするので文句を言うと、店長が俺を憐れみの目で見てきた。
「残念ながら、じゃあ、僕もキスさせてねって笑って篠原くんの唇奪いに来るぞ」
「性質悪い!だから本気でやめてくださいっ」
そうして店長に無理やりキスされそうになり、俺は必死になって店長から離れようとした。たまに姿を現すオーナーにゴリラといわれて罵られるだけあって、店長の力は強い。俺が手で店長の身体を押しても、店長の手を剥がそうとしても、店長には敵わない。
「いいじゃねぇか、初めてじゃないんだろ」
「初めてじゃないけど、男とはしたことないっつか、マジやめて!」
俺がもがいているところに、来客を告げる音が響く。休みになると小さな子供がセンサーの前を行ったり来たりするため、大変煩く鬱陶しい音なのだが、今夜ばかりはそれが祝福の音に聞こえた。
「あ、イツミくん……っ」
それがタイミングよく来店したイツミくんだった時には、あの子天使なんじゃないだろうかとさえ思った。随分目つきの悪い天使であるが、地獄に天国である。
俺は、先程まで店長としていた話も忘れて、イツミくんに助けを求めようとした。
しかし、イツミくんはレジに目を向けると、いつも最初に向かうチョコレートのコーナーにいかず、お弁当も買わず、ただ、数秒俺と店長を見て、踵を返す。
「え、ちょっと」
助けを求めようと思い口を開いた俺から、助けを求めるものではない言葉が漏れた。
「もしかして、勘違いされたか?」
「……今すぐあがっていいですか?」
「長めの休憩なら許す」
俺は絡まってきていた店長を乱暴に振り払うと、イツミくんを追いかけて店から出る。自動ドアでなくてよかった。少しも待つ必要がない。
右を見て、左を見た。
夜中の歩道にはたった一人の背中しかない。
俺は今なら陸上選手も驚くくらい早く走れる気がした。気がしただけで、実際は、その後ろ姿に追いつけない。
イツミくんは、近所のマンションへと姿を消した。
俺がそのマンションに辿り付いた時には、もう、イツミくんの後ろ姿はなかった。
まだイツミくんが何処に住んでるか、知らない。
最近はポストに名前が書かれていないことが多い。おかげでマンションが分かっても、何処に誰が住んでるかわからない。
「……マ、ジでか……っ」
息を切らし、階段を睨みつけ、階段を上る音さえ聞こえないことに、俺は絶望する。
急に寒気を感じた。
部屋を知らないくらいで、何も知らない気になる。
誕生日はもちろんのこと、血液型も、どこで何している人かということも、推測するだけで、本当は何も知らない。それは結構普通のことだ。知らなくても、イツミくんという人がいて、イツミくんを呼ぶための名前があるのなら、関係は作っていける。
けれど、俺は何かを知る必要がなかったわけではない。何かを知ろうとしていなかった。知って、関係を進めることを悩んでいた。
今もそれは変わらないが、こうして追いきれないなら、知っておけばよかったと思う。
そうすれば、部屋まで行って直接、すぐ謝ることもできた。
俺はしばらくコンビニに戻ることもできず、制服のまま、マンションの前をウロウロした。時折、階段をにらみつけもした。
しかし、イツミくんが戻ってくることはなかった。イツミくんとは違うコンビニの常連さんが通らなければ、おそらく朝までそうしていただろう。