心の準備はできているか?


到着したばかりだし、今日くらいは仕事しなくてもいいよという言葉を期待していたわけではない。しかし、それでも、到着して試験をして一汗かいたあとなのだから、少しくらい休む時間があってもいいと思う。
現実は甘くなかった。
「いやー兄ちゃん、その怪我でよく動けるねぇ」
「いえ、この程度なら」
医院から戻って来た一織の謙遜を遠いとも近いともいえない位置で聞きながら、俺は荷物を運んでいた。
そう、雑用だ。
何が入っているかもわからない重たい箱を運びながら、貼り付けられた紙に書かれた文字を流し読む。
水濡れ厳禁、天地無用、壊れ物。
こちらにこれでもかというくらい緊張感を持たせる赤い紙である。渡されたときに、落とすなよと軽々と投げ渡されたため、これほどの重さがあるとも思わなかったが、あまり注意をしなければならない荷物のようにも思わなかった。
箱に張られた注意書きを見る限りでは、投げて渡すなどもってのほかの荷物であるように思える。
俺が慎重に荷物を運んでいると、後ろから艶のある声が聞こえてきた。
「おや、色男。荷物運びかい?」
生まれてこの方、この姿で色男と呼ばれた覚えもないため、危うく無視をするところだった。
「色男……、あっちの人ちゃいますか?」
「いや。あんたのことさ。あっちのお兄さんは確かに食べ頃の色男って感じだけどねぇ」
褐色の肌に薄い金髪、細められた目は色っぽく、スタイルのいい身体を強調するかのような布の体積が少なめの服を着たお姉さんに声をかけられて悪い気はしない。
視線がうっかり見えてしまう谷間に吸い込まれそうになるのも仕方ない。
普段男ばかりの環境にいるものだから、こういったお姉さんにお近づきになる機会はそうそうないため、鼻の下もすこし伸びていたかもしれない。
「何処に運ぶんだい?」
「団長さんとこまで持ってくだけですよ」
「そうかい。私が持っていこうか?団長に用があってねぇ」
荷物に手を伸ばしてくるお姉さんがやたらと密着してくるので、大変おいしい感触が腕に当たる。
今、おいしい思いをしている。めったにないことだ。
俺は自然と笑っていた。
「いや、任されたの俺やし、結構これ、重たいんで女の人に持たされへん。俺が持って行きますわ」
やんわりとお姉さんの手から荷物を遠ざる。
「おや、男前だね。なら、話し相手に一緒に行かないかい」
またもやおいしい提案に、俺の鼻の下はもしかしたら伸びきっていたかもしれない。もともと人に誇れる顔ではないというのに、鼻の下が伸びてしまっては見られたものではない。
だが、そのおいしいお誘いにも、ゆるく首を振った。
「これ団長さんに持っていく前に、ちょっと寄るとこあるんですわ。お待たせするんは気が引けますさかい、また誘うたってください」
お姉さんは更に目を細めた。
「振られちゃったねぇ。仕方ない。食べ頃の色男でも誘っていくとするよ」
おそらく、その食べ頃の色男は俺より攻略が難しい。俺は笑顔でお姉さんの背中を見送った。
後姿まで色っぽい。
「さて、どこ寄っていきましょね」
小さく、誰にも聞こえないように呟くと、俺はフラフラと荷物だけはしっかり持って、目的なく歩き出す。
お姉さんにはああ言ったが、実のところ、寄るところなどなかった。
俺はここに来たばかりだ、誰が団員であるとか客分であるとか、仕事を頼んだ他所の人であるとかそういうことが解らない。
そこらかしこに散らばる団員を避けながら、俺は目的を知り合いであるという理由だけで和灯に定める。
「かーずひー」
団員と思しき人と話していた和灯は、俺の声に振り返り、一度口を開閉してから苦笑した。
「何?」
「たいした用やあらへんけどな、おひぃさんに話かけとる色っぽいお姉さんは誰やろなと」
俺はちらりと一織が居るだろう場所に視線を向ける。お姉さんは俺に言ったとおり、一織に話しかけていた。
俺の視線の先を辿って、和灯はしばらく視線を止めて、右手であごを触る。
「雇った人、だと思うよ」
「団員さんではないんやな」
「うん」
和灯が学園に居る間にも技芸団の人間は増減しているらしいのだが、和灯はそれを逐一教えられているから確かだと言ってくれた。
「ほなら、あの対応で正解ちゅうことかな」
「どうかした?」
「いや、なんちゅうか。俺がおいしい思いすんのはないやろなちゅう話」
十人居れば十人色々ともいうし、まずいものを食う虫だっているとはいうものの、ちょっと見た程度の知り合いにそれを適用させるには、いささか的中率がよすぎるというものだ。
「うん?」
「まぁ、気にせんで」
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