痛かった。勢いが良すぎてぶつかるようだったし、本当に噛まれている。自棄だとしか思えない。
何故こうも思い切ったことをしているのだろう。
噛みついてきた本人もそう思ったらしい。離れるべきか続けるべきか、悩んで唇がわずかに離れる。
してしまったのなら少しでも楽しむべきなのかもしれない。俺は小さく、声も出さず笑う。息がこぼれる。
こんなことをされてしまっては、笑う以外に何もできない。
俺は左手で一織の頭を支え、やはり離れようとした一織に呟く。それは音にならない。けれど、俺のやりたいことは伝わったのか、一織は急に動かなくなった。
今度は噛まれることはなく、先ほどより柔らかな感触が伝わる。噛みつかれるよりも優しい感触は、それと比べれば情熱が足りないのかもしれない。
そんなものは必要ないだろう。
しかし、せっかくだ。
俺は、一織の体温を探る。俺より高いのか、それとも少し前に高くなったのか。違和感のような体温の違いが判らなくなるころ、俺は離れる。
「……嘘だろ」
小さな声に、俺はまた笑みをこぼす。
俺が離れるとゆっくりと椅子に腰を下ろした一織は、自らの唇に触れ、何が起こったかわからない顔をしていた。
その様子に満足して俺も椅子に座ると、途端に食堂が騒がしくなる。
もしかしたら、俺が聞こえないくらい一織に意識を奪われていたのかもしれない。
「見せつけてくれる」
「いや、せぇいうたの先輩ですやん」
俺と一織に若干引き気味な九我里先輩は、冷やかしたり煽ったりするのは口だけのようだ。平然とした顔でジンジャーポークセットを食べ始めた俺から、少し席を離した。
俺と違って、自分でこの事態を引き起こしたくせに、一織は現状についていけないようだ。唇を指で隠す様に触れたまま、固まっている。
俺は夕食をとりながら、見える範囲で食堂の様子を伺う。そうでもしていないと、平静を保てそうにない。さすがにこれは、俺でも転げまわりたいほどやらかしてしまっている。
一織のちょうど斜め後ろくらいだろうか、感極まって眼鏡を持ち上げ目元を拭いている七三がいた。俺たちがこの席にきた時はいなかったように思う。わざわざ近寄ってきたのだろうか。それにしても七三眼鏡がどうしてそこで感極まるのだろう。一織を応援するにしても、ほどというものがないだろうか。
七三眼鏡が目立って仕方ないが、俺は他に意識を向ける。
辺りは驚愕と困惑に満ちていた。敵意などもこの驚きの事態で困惑するものらしい。随分と減った。
しかし、強くなった敵意もある。
それは、よく知っている人からのものだ。けれど、ここまで強い敵意を向けられたことはなかった。
「十織、めっちゃ怒っとるし」
「……十織?」
その名前を聞いただけで、一織は動き出す。
俺の視線の先をたどり、ちらりと十織がいる場所を確認すると一瞬にして眉間に皺が寄る。そして何かを我慢するように一織は唇を引き結ぶ。
「まぁ、そやろけども」
随分切ないものを見た気分だ。
手を伸ばしそうになって、代わりにフォークを動かす。
そうして我慢する必要がどこにあるのか。
その方が都合がいいのに口から出ていきそうになる。それは口に入れたものと一緒に飲み込む。
「これは、食堂内、我に返ったら怖いやろなぁ……」
「……他人事、みてぇに」
視線を下げた一織の声があまりに小さい。
なんだか気まずくなってしまった俺たちは、黙々と食べ物を口に運ぶ。
それは他人には照れて黙ったように見えただろうか。そうであってほしい。
しかし、隣にいた先輩は俺たちの様子より別のことに首を傾げた。
「お前、さっき、会長のこと名前で呼んだ?」
それは、少し前まではなかったことだ。
俺はゆっくり頷いた。それは俺と十織の距離感だったのだ。今のほうが、前より近い。恋愛などこの学園に置いていくつもりであったから、距離を取っていた。
それをやめた理由など、先輩のいうことに反応して食事の手がとまった人間他ならない。
「まぁ、友人ですから」
そのことばの意味するところは、恋心の在処のようなものだ。何処にそれがあるかなど俺にとっても一織にとっても明白である。
それがどちらも違う場所であったとしても、問うまでもないことだ。