そうして先輩はいとも簡単に驚き、俺が教師陣の手先だと気づかぬまま、俺の腕の中にあるゴムボールを数個取って俺たちから少し離れる。
 そのかわり、一織が俺と距離を詰めた。
「聞いてねぇ」
 一織は不機嫌そうだ。俺が先輩にした二択はお気に召さないらしい。
「何を?」
 わかっていながら俺がとぼけると、背後からいつもの舌打ちが飛ぶ。それのおかげで不機嫌ではあるものの、食堂であった気まずさは引きずっていないこともわかった。
「そこの先輩のことだ」
 一織はどうやら俺が二択を用意したこと、その二択で先輩を仲間に引き入れようとしたことを聞いていっているようだ。
 そう、あの二択は先輩を誤魔化すため、その上あわよくば俺の味方になってもらうために用意したものである。
 俺が先輩を利用して留年というのは、先輩を仲間に引き入れるついでに教師陣の依頼もこなしてしまおうという話で、それを説明をせずに結論だけを選択肢にしたものだ。
 一織は俺と共謀していること、俺との付き合いが先輩より長いことで先輩よりわかることが多かった。そのせいで、気づいてしまったのだ。俺が一織に先輩のことだといわれてその二つが気にいらないとわかるのと同じようなものだ。
「まぁ、そう怒りなさんなよ」
「怒ってねぇよ、すねてんだよ」
 一織はたまに素直すぎるのだが、いったいなんのアピールなのだろう。
 すねているということは、あの二つだけでなく、いまだに先輩についての説明がなく、しかも仲良さそうにしていることを気にしているのかもしれない。
 そこに思い当たり、俺は一応先輩の説明をする。
「先輩はあれや。静かでしつこい人」
「ハァーイ! 静かでしつこい人デース」
 少し離れ、ボール遊びをしているといえど俺たちの話はしっかり聞いていたようだ。先輩が陽気に自己紹介をしてくれた。
 その時の一織ときたら最高である。先輩の自己紹介を聞くや否や、床に足をたたきおろし、声を這わせた。
「ハァ?」
 応えなど求めていないその声に、俺は一織の独占欲を感じながら、残っていたゴムボールをすべて転がす。
「おひぃさん、そんなに妬かんでもええんとちゃう? 正直、悔しいけど良平の方が俺と仲ええで」
「あれはおまえの本命だから仕方ねぇが、浮気してんじゃねぇよ」
 悔しいながら良平とそこそこ仲がいいと認めるのではなかった。一織がまた俺と良平をここぞと気持ち悪い仲にしてくれる。しかもあれを本命にすえて浮気するなというのは、一織も相手にしてはいけないというのがわかっているのだろうか。もちろん、火遊びするにしても一織は選べない人である。そのあたりは突っ込まないことにした。
「本命ちゃうわ。なんでそんなに俺を悪趣味にしたいん?  ちゅうか、浮気てなんや、先輩か? 火遊びに先輩選ぶとか俺は悪趣味の塊かいな」
「あんだよ、いっつも俺の前でいちゃついてるじゃねぇか」
「ついとらんし、どっちや。どっちのことや。どっちにしてもめっちゃ変な色眼鏡かかっとるがな」
 不名誉もいいところである。どうせいちゃつくなら、背後のお兄さんと俺のことを毛虫のように睨み付ける弟さんの方がいい。実際はできもしないが、そちらの方が俺の趣味の良さがうかがわれるというものである。
 だが残念なことに、弟さんは俺といちゃつくことなど今後一切ないと思うし、そのお兄さんといちゃつくことはできても恋人偽装期間だけだ。
「どっちもだ。良平はともかく、そこのトンビは駄目だ」
 トンビにされた先輩は、不吉な笑い声を出しご機嫌な様子でこちらに向かってきた生徒の一人を蹴る。
 それとは逆に一織の不機嫌さが見え始めたのか、俺に向かってきて一織に撃破される生徒は減っていた。実はこの乱闘が始まってからずっと、一織は俺を襲撃し損ねた生徒たちの相手をしていたのだ。
「なんでそんなに良平に優しいんや、おひぃさん。逆に俺に厳しいと思うんやけど、俺に優しさは……?」
「しらん。とにかく、いちゃつくな。腹立たしい」
 妬かれるのは素直に嬉しいのだが、対象が悪い。ただ妬いたというだけならば、心の中で万歳三唱までできたはずである。しかし、一織は本気かどうかわからないが俺の本命と浮気相手にあの二人を選んだのだ。本当に勘弁してもらいたい。
「ほな、何したら、信じてくださいますかね?」
「どの口が何を信じろって?」
 なんだか雲行きが怪しい。
 確かに俺に信じろといわれても無理な話である。俺自身でも笑って冗談だろうという話だ。
 ならば、もっと俺らしいことばで一織に信じてもらうまでである。
「やったら、騙されたって」
 一瞬のことだった。
 一織の気配がこぼれたと思うと、消える。
「……なら、騙せ」
 先輩のわざとらしい口笛がいやに、遠く、聞こえた。
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