見事に雨は降り出した。
傘なんて持っていない俺はカバンを抱えて学校から走る。
距離は、そんなにない。ずぶぬれで帰って、制服干しとけばいいだろう。そう思って走っていた。
四階だて、新築の、だけどあまり広さがなく北向き。まだあまりもののない我が家に向かって帰っていたときだった。
裏口から入ろうと、裏道に入った俺は、近所に住んでる親切な河上さんに会うこともなく、そろそろマンションが見えるというあたりで、何かに躓き、たたらを踏んだ。
躓いたのは柔らかいものだった。
黒いズボン、黒いブレザー。
河上さんの息子さんが通っている中学とはちがう中学校の制服を着たそいつをみて、俺はふと、笑った。
「ぼっこぼこやんけ」
顔ははれているし、制服は酷いことになっている。
極めつけに動かない。
たとえ、人が躓いても、だ。
何か、面白すぎて笑いがこみ上げた。おかげさまで、ここ最近稀に見るご機嫌になってしまった俺は、そいつに向かって言った。
「機嫌ええから、手当てくらいは、したるわ」
意識があろうとなかろうと、俺は地で話しかけ、ただ笑った。
それが、京一と俺、市橋雄成(いちはし ゆうせい)の始めての顔合わせ。
親父に似ていない京一の写る写真を見て、よかったな、お前母親に似て。と思ったのも久しい。中学生の腹違いの弟は、まだ成長段階だがとてもいい男に育っていた。
ただし、ぼっこぼこのぼろぼろだったことを除いて。
それは、笑いもこみ上げてくるってもんだろ。
こいつ雨の日にボロ雑巾みたいに転がって、何の定番だよ。と。
月並みとかお約束すぎ。
そう思えば、自分が愛人の子だってのも、中学上がった頃に知ったらしいし、俺という兄がいることもその頃に知ったらしい。
普通にグレた。と豪傑な京一の母親は笑っていた。
だから、今、俺がこうして手当てなんてして、我が家に連れ込んでいるのは何かおかしな出来事でしかない。
しかも、京一は俺という兄がどんな奴で、どんな顔をしているかだとか、父親がどんな人間かということを知らない。
だから、ここで、こうして顔をあわせても、京一は俺を兄だとは思っていなかったし、なんかこのご時世助けて家に上げる奴がいたのかと、そんな微妙な思いを代弁した微妙な表情を浮かべた。
「…あ、起きた?」
「……」
俺の言葉に違和感を覚えたらしい。
どうやら、あの時、京一はそれなりに意識があったようだ。でも、確信にはいたらないほどの意識だったに違いない。
俺は殊更明るい調子で、何も知らないふりをして笑いかけた。
「おはよう。昨日、君、そこで倒れてたでしょう?」
俺のうちのベランダは裏道を見渡せる場所にある。
窓を指差してニコニコと笑いながら、うっかり、おっとりみたいな調子で話をすすめる。
「なんか痛そうだし、風邪引きそうだし、つれてきちゃった。…具合、どう?」
自分自身でいっていてもイライラするようなしゃべり方。天然ぶって、気持ちが悪い。しかし、俺はサブイボを抑えて続ける。
「なんだー?話さないとわからないぞー?」
「……、あんた、は…」
眉間に皺を寄せて、なんと言ったものか迷っている京一は面白い。ぐれて、不良になったくせに、どうしたもんかと悩んでいる。正直、胡散臭い天然ぶっている俺よりいい奴なんだろうな。などと思いながら、俺は続ける。
「俺ー?市橋雄成」
「……」
そんなことはきいてないって顔をする京一。可愛らしいもんだよ。
「で、具合どうなの?」
「……、悪くは、ない」
ああそう。の領域だな、その回答。なんて思いながら、俺はニコニコ笑う。
「そっか。なら、一晩とまっていきなよ」
深くはつっこまない。今はその気がないから。泊まれといったのは、一種の社交辞令と、今演じるキャラの性格柄、言わなければいけない台詞。
俺としては、そこの床で寝るくらいでええやろ。悪ないんやったら、余計。んで、俺の布団は俺のもん。だ。
客用の布団なんてものはまだない。そして、俺は買うつもりがない。そのうち、誰かが買えばいいのではないかと思う。それ置いて帰れ。
「…いや、帰る」
ええ、それが正しい解答でしょう。でも、キャラ的に一回、二回は引き止めなければならない。
「ええ!?心配だし、まだ雨降ってるし、とまってきなよー」
「いや、悪いから」
あれ?京一、不良じゃなかった?わりとまっとうなこといったよ。それとも俺の認識が悪かった?
「えー全然オッケーだし。俺、こっち越したばっかで、さみしくてさー」
寂しいどころか、引越した早々ワンワン二匹に懐かれて、ぱしらせて、いいご身分ですがね。
「いや…家、遠くないし、全然平気だから」
何、この謙虚さ。
最近の子ってこんななの?いや、これは特例か。
「じゃあ…俺と友達になって!」
だなんて言ったのは悪戯心。京一、困った顔しそうだろう?それで、しぶしぶ、友達になってくれるんだろ?もう一度、会うこともない友達。
「…、わかった」
案の定だったわけだ。
困った顔で頷いた京一に、俺は本心から鼻歌。
その鼻歌に、京一がはっと目を瞠ったことをそのときの俺は知らなかった。
「じゃあ、今度、また、会おうね」
一応約束は取り付けておく。本心ではないが。
京一は、慌てたように頷いた。