Luck


その日の彼は疲れていた。
弟に好きにされてヘアピンと髪ゴムで飾られた髪も、大学の近くにあるバイト先の店長に実験的に染められたピンクで赤メッシュも、見せ掛けはとても元気であったが心持しなびていた。
通勤時間は電車とバイクで1時間半。雨の日はバスを使ったりもする。
雨の日も、風の日も、何の変哲もない日も、耳にイヤホン、ポケットにMP3プレイヤー。
家に帰っても、一人の時は耳にイヤホンだ。
疲れていたその日だって、一人で帰宅中で、雨の中、バス停に行く途中だった。
もちろん耳にはイヤホン。
そして右手には傘、肩からぶら下げているのは財布やドラムスティックの入ったカバン。
MP3プレイヤーを操作していたのがよくなかったのかもしれないし、ネックストラップを付けて首から下げたほうが良かったのかもしれない。
しかし、こうなってしまっては、後の祭りというものだ。
街中の少し広い場所の片隅。
そこを横切ればすぐにバス停。
雨だというのに殴り合いをしている高校生は、元気というより馬鹿なんじゃないだろうかと思うことさえないくらい、それが普通なこの辺りの学校の…弟が通っている学校の、生徒だ。
この辺りでは悪い意味で有名な、所謂、不良ばかりが通う、喧嘩上等!な学校。
うわ、冗談じゃねーよ。と思うことすらない、普通の光景で、もちろん彼はそこを避けてバス停に向かっていた。
距離は充分とっていた。
…とっていたはずなのに、勢いよく飛んできた高校生にタイミング悪くぶつかってしまい、何とか踏みとどまろうとしたものの、出した足は水溜りにぶつかり、運悪く留まることができずそのまま水溜りにダイブ。
手をついたお陰で、怪我などはなかった。
しかし、MP3プレイヤーは水溜りへと沈んだ。
その日の彼は本当に疲れていた。
殴り合いをしている高校生が元気であろうが、校則にひっかかりそうな、自分と同じような派手な髪をしていようが、関係ないくらい疲れていた。
暇さえあれば聞いているMP3プレイヤーは言わば友達といっていいくらいの存在だ。
たとえ金があろうとも、バックアップがあろうとも、水溜りにダイブした挙句その場で嫌な音がして壊れては、腹も立とうというものだ。
耳にイヤホンをして、その先にMP3プレイヤーがないという格好悪い状態でも、疲れ、立腹し、自分からぶつかってきた癖にクソが馬鹿がと文句を言ってくる高校生の腹に拳を入れて沈める。
彼は今年で二十歳だ。しかし、まだ19歳だ。ぎりぎり少年Aの立場だと頭のふちで思う。いや、その前に、警察にお世話になるつもりは一切ない。
喧嘩をしていたのは十数名の高校生。
よくよく見れば、見知った…というよりも、生まれたときから知っている、そして昨日もみかけた弟もその中に混じっていることを知り、彼は一つ頷いた。
イヤホンを投げ捨て、傘を投げ捨て、喧嘩の輪の中に入る。
「あ、兄貴…っ!?」
弟の悲鳴が聞こえたが、それは無視して一人ずつ蹴り倒す。
乱入してきた彼に混乱した高校生は可愛いもので、ほぼ彼の蹴りに一発で沈んでくれる。…蹴り倒しているのは、明日、人を殴った形跡があると非常にバイト先の店長が煩いからだ。
そういうことが考えることができるのだから、おそらくMP3プレイヤーが壊れたことの怒りを高校生にぶつける必要は、蹴りを選んでいる時点でなかったのだが、もう勢いのようなものだった。
大体が倒れている中、彼の弟と何か格のちがうような男が残っていた。
弟は後で始末すればいい。というよりもこの場を撤去してもらうのには必要な人員だと彼は判断した。
格の違う高校生については、かかってくるようなら応戦、そうでないのなら、説明して、詫びを入れて次のバス停まで歩こうとそう思った。
格の違うと思われる高校生は、本当に格が違っていた。
彼を見て、下に倒れている高校生を確認するように見ていき、最終的に傘が転がる辺りを見た。
MP3プレイヤーがある辺りで視線が止まったのは、MP3プレイヤーが派手な色をしていたせいもあっただろうし、その高校生の目が良かったせいもあるのだろう。
視界最悪の雨の中、水溜りに沈む赤いMP3プレイヤー。
近くに倒れ呻いている人相の悪い高校生。
「……悪い」
「…あれを飛ばしたのはあんたか」
慌てたのは、彼の弟だった。
「ああ、あ、あに…てか、水城さん!」
視界最悪の中、よくよく見れば水城と呼ばれた高校生はこの辺の学校の制服を着ていなかった。
制服を見ただけでは解らないことから、この辺りどころか県下の学校の生徒ですらないのかもしれない。
そこまで思いを馳せ、ため息をついた。
「謝ってもらったし、八つ当たりもした。…とりあえず、喧嘩割り込んで悪いな」
「いや、こっちこそ」
目上に対する態度としては如何なものかと思えるが、不良にしては珍しい態度で、睨みもしなければ絡んでくる様子もない。
怪我もなさそうな水城を見て、強いんだなと納得した後、不意に根元が黒くなっている金髪に目を細めたあと、笑うと、濡れてしまったカバンから財布を取り出し、一枚のチケットを取り出す。
それは彼の気まぐれだった。
「詫びっていっちゃあなんだが、まぁ、気が向いたら、来いよ」
水城に押し付けたチケットは店の住所の書かれた割引券。
そう、彼が…戸田傾城(とだけいじょう)がバイトに行っている美容室割引チケットだった。
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