「そうでもないです」
 俺は北方騎士団の団員たちに狩りの成果にたかられることを思い出し目を細める。騎士学校に入ってからは、彼らと顔を合わせる機会もめっきり減っていた。
「そろそろ王子を迎えに行きたいので、魔法や薬をどうにかしてもらいたいのですが」
 しかし、今は懐かしい北方騎士団よりも王子である。
 呪具のこともあるし、王子を迎えにいくと告げてあった。
 イズベル師の研究室の窓は、木戸が閉めてあるため陽の光が入らない。だからはっきりとした時間はわからないが、俺の感覚ではここにきてから随分時間がたっている。
「やっぱり、カワイゲないネェ……マァ、ちょっとだけ待ってェ」
 イズベル師は手紙を持ったまま机に手を伸ばすと、小さな皮袋をとりその中に手にあった包みを入れると、俺に手紙と一緒に渡し、一言二言呟くと、手を二回ほど叩く。 「これでいいヨォ。その手紙の魔法も解いておいたからァ」
「魔法?」
「ソォ。例の黒だヨォ。思いが強いからネェ……たいしたことない魔法なんだけど、重なるとちょっと気分に影響しちゃうからァ」
 手紙は、俺が寝る前に話していた無意識に使ってしまう魔法がかかっているらしい。思いの強さで発動するのなら、確かに手紙はおあつらえ向きといえよう。
「ソウソウ、一応説明しとくねェ。今回は呪いの上掛け調整、呪いを偽装する魔法の強化のための薬を用意したヨォ。あと薬は他にも三つあって、黒いのが滋養強壮ォ、茶色いのが痛みどめェ、紙に包んであるのがラグくんを騙すための薬ィ」
「……王子を騙すとは」
「ソノママ。ラグくんの手から逃れられなかったら使ってネェ?」
 そんなことにはならないといっておいたというのに、余計なお世話である。



◆◇◆◇◆



 イズベル師の部屋から出ると、まだ閉じられていない窓からこがね色の陽が射していた。
 夕暮れには室内に冷たい風が入る季節だ。廊下であっても木戸が開いている窓は少ない。それでも光をとるために木戸を開けてある。その窓からところどころに落ちる光が廊下に温かみを足すように見えた。
 しかし、その場には目に見えるほどの温かさはなく、すでに冷たい空気が廊下を這っている。
 俺は廊下を急ぎ足で移動した。
 思った以上に時間が経っていたからだ。
 教師達の研究室は生徒たちが授業をうける教室からは離れている。研究室にいるせいで授業に遅れてくる教師も少なくない。しかも、イズベル師は一番広い研究室を使っており、広い分より遠くに研究室があった。不運なことに王子の居る教室は最終学年のものでさらに遠い。
 そうなると待つのに飽きて、先に寮に帰ってしまう可能性だってある。
 昼間に休ませてもらい、その上迎えに行くことも出来ないとは護衛官が聞いて呆れてしまう。
 走り出したい気持ちを抑え、俺は黙々と足を動かす。
 この辺りは人も少ない。走ったところで誰にも迷惑をかけない。だが、緊急時以外走ることは避けたかった。従者の行いは主人の品格だ。走ることを推奨しない場所で俺が走ってしまっては、その主人である王子の品格が疑われてしまう。いくら、王子が品性の欠片も見当たらないことをいっても、見せかけくらいはそれらしくしたい。
 それでも、こうして急ぐ姿は余裕がなく見えただろう。そのあたりは俺が成り上がり貴族であることに目をつけて、陰口を存分に叩いてもらいたいものだ。
 俺が教師の研究室が並ぶ場所から生徒がよく使う廊下まで来ると、陽射しには赤が混ざっていた。
 なおも歩む速度は緩めず、せめて堂々として見えるようにいつもより心持ち背を伸ばす。視界が少し広くなった気がした。
 昼間は生徒たちが多く行き来している渡り廊下も、このぐらいになればぽつりぽつりと見かけるくらいである。その人通りの少なさに、俺はますますあせった。俺の姿を人に目撃されないことはいいことはいいことだ。しかし、それほど遅い時間に王子を迎えにいっているということは問題である。
 まるで子供を余所に待たせている親のようだ。
 自嘲がこぼれそうになったとき、今朝も通った渡り廊下に見知った人を見つけた。
 フォー様とセルディナ、そしてイドルク・エンツィーオだ。
 セルディナがフォー様を隠すように立ち、フォー様は困った表情でセルディナの前の立つ生徒を見つめていた。
 セルディナの前に立つのは、イドルクだ。外交官の息子で、健康に害がある甘すぎるお菓子のような雰囲気の生徒である。
 イドルクはあの二人にはとても警戒されていて、二人ともイドルクを避けていた。だから二人といることが多い俺も彼をあまり見かけることがない。
 しかし、俺はイドルクにいい感情を持っていなかった。
 よく一緒にいる二人に避けられているということ、演習場で睨まれたということもその一因だろう。だが、それ以上にイドルクをはじめて見たときからずっと引っかかっている。
 俺は外を見て、また空の色が変わっていることを確認した。すでに青い空が暗くなり、赤がこがねに代わって薄く光っている。夕方というのがためらわれる時刻だ。少しだけ悩み、俺は三人に向かって歩を進めた。フォー様やセルディナに助けを入れるため、どうしても気になるイドルクに接触するためだ。
「フォー様、こんなところにおいででしたか。王子がお呼びですよ」
 三人ともが一斉に俺に振り向き、各々驚いた顔をする。俺が静かに近づきすぎたことと、三人ともが回りに気を向けていなかったことが原因だろう。
「え、あ、兄上が待ってるなら、はやく行かなきゃ」
 フォー様はすぐに俺の助け舟に乗った。ほっとした様子で俺を見つめたまま、緩く笑う。いつもと違い親しみやすい笑顔ではなく、心の底から顔に安堵がにじんでいた。セルディナはフォー様の様子を見て何かを噛み殺したような顔をしてから、再び正面を睨みつける。フォー様の様子に、またイドルクへのあたりを強くしたのだろう。セルディナが無意識に黒魔法を使う日も近いかもしれない。
「そういうわけだ。申し訳ないが」
 イドルクを睨みつけるばかりで口を開こうとしないセルディナに代わり、俺が口を開く。すると、イドルクはじわりじわりと顔を歪めた。辺りが暗いせいもあり、驚いても甘い菓子のような顔がまがまがしくなっていく様は醜く、こちらの怖気を誘う。
「また第一王子……」
 イドルクは小さく呟き、歯を軋めた。こちらに苛立ちを伝える甲高く感情的な音だ。
「また……?」
 俺は首を撫で、イドルクを見つめる。イドルクは俺が現れたときから俺のいる方をずっと見ていた。驚きながらも睨みつけていたといってもいいだろう。セルディナも、執心しているのだろうフォー様にも、目もくれない。それも俺に目を向けていながら、その後ろを見ているようだった。
 俺の後ろに、人はいない。
 しかも、イドルクが睨んでいるのはこの場よりももっと遠くだ。
 背の中ほどから何かが駆け上がり、俺はもう一度首を撫でる。あせっていて忘れていた痛みが、また戻ってきたようにも感じた。