俺が鬼怒川について知っていることはほんの少しだ。
俺と生活リズムが合わない、無類の甘党。風紀委員長で、だからといって、何もかも四角四面にきっちり真面目というわけじゃない。
適度に手も抜くし、見逃しもする。
ちょっと緩いくらいなのに、風紀委員長といえばこの人しかいないと思われている。
俺とは犬猿の仲と噂されていて、その癖、互いが同室者であるということになかなか気がつかないくらい、お互いに無関心だった。
ついさっき、それに、キスが気持ちいい。という情報が入って、なんか怪しい事務所の鍵を持っているという情報も加わった。
けれどだからって、負けたと思うことはなかった。男として、勝つことはないまでも負けているわけでもない。という認識だった。
しかし、鬼怒川が俺の言うとおりテーブルに座った時、ああ、勝てねぇなと思った。
やたら気持ちのいいキスだとか、何やってるかしらねぇけど、いかにも何かありそうな事務所とか。
大人しく連れてこられてしまった俺だとか。
何かがハイスピードで走っていって、少しおいていかれているような、少し熱に犯されているような感覚があった。
悪乗りをして、男の恥だなどと言いはしたものの。 何も考えていなかった。
コイントスをされて、勘が外れたら文句なんていうに決まっているし、あがく。
勘が当たったことには内心ホッとした。
それに鬼怒川も文句をいうだろうと思って、皮肉って冗談で言ったのだ。
「文句はねぇんだよな?」
それなのに、鬼怒川は舌打ちをしただけで、最初に俺が指定したローテーブルに座って言ったのだ。
「…どうぞ?」
勝てるわけがない。
文句を言われたら笑うだけのつもりだった。
やっぱりな、といって、ソレを鬼怒川も流すだろう。そう思っていた。
無類の甘いもの好きで、いきなりリクエストなんてしてくるくらい図々しくて、それでいて、それをそれとなく隠すような悪戯をする。飯を作れば食うし、迷惑じゃないという。
それだけで俺の機嫌は鰻上りするくらいに、鬼怒川省吾という人間を気に入っているのだ。
そう、気に入っているのだ。
いきなりキスをされても、幻滅したりする前に気持ちいいなと思ってしまうくらい気に入っている。
もともと、貞操観念が低いってこともあったし、年がら年中男がどうのと言っている学校に、何年もいては感覚も狂う。
もちろん、街に下りるたびそれは普通ではないと思わされるが、それでも日常的に繰り返されては見方だってかわる。
男でも女でも変わらない。そう、思っている。
けれど、鬼怒川のように潔く自分の身を差し出すようなことはできない。
ああ、でも…もし、鬼怒川に俺の身体を差し出したのなら、鬼怒川は俺にどんな顔をするのだろう。
「…どうも?」
そんなことを言いながら、俺は、鬼怒川の足元に膝をつく。
なぁ、どんな顔をする?
足元から見上げた鬼怒川は、少し怪訝そうな顔をして俺を見た後、困ったように笑った。
きっと俺は悪戯に成功した子供のように笑った。
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