失くしたと言っていた。
父母が出会うきっかけとなった本は、短い言葉を交換し、その言葉を本文にしていくものだ。母の分はなく、父の分だけが父の書斎の一角を彩っていた。母も父もその一冊を大事に大事にしていて、まるで宝物のような本だと思ったものだ。
ある日、父がそれをくれた。
いらないと何度つきかえしても父は俺の部屋の机におくことをやめない。仕方なく俺は机の上の読みかけの本と一緒に、それを乱雑に積んだ。父と母の宝物は、その頃の俺にとってその程度のものでしかなかった。母はともかく、過分に構いたがる父を鬱陶しいと感じていたのだ。
昔の俺は、いつも自分の部屋にいた。俺の住む郷では成体ばかりで、俺と同じくらいの子はいない。だから大人から何か学ぶとき以外は、各所から持ってきた本を部屋に詰め込んで読んだ。
本の中には俺の知らない世界がある。深く、うっそうとした森や、木々に隠れるようにして棲む動物は、そこにもいた。しかし、俺の興味を引くのは、いつも人の生きる世界だ。父も人に興味があり、俺の部屋はいつも父の書斎から持ってきた本で溢れていた。母が『お父様の本棚に住んでいるのね』と笑うくらいだ。
そうして本をつめてつめてつめ続ければ、雪崩くらい何度かおこすものである。
そのときは、奥から全部の本が雪崩れてきて、仕方なく手元に置く本を厳選し、元の部屋、元の位置に戻していた。その際いつの間にか見えなくなっていたあの本の青い背表紙を見つけたのだ。
それも元の位置に戻そうと、俺はそれを手に取った。これを父が俺の部屋に入れたのは随分前の話だ。今なら父も忘れているに違いないと父の書斎に戻そうと思ったのである。
しかし、それに触れた途端、本が勝手に開き、真っ白な頁に文字を浮かべた。
『はじめまして、イーディアス』
父と母の記録しかない本に、浮かんだその文字は奇妙な響きがある。はじめてだというのなら、真っ白な頁に名乗ってもいない父の名前を母が知っているはずがないのだ。
文字は更に続いた。
『私は です』
名前があるだろう部分は、何故か空白だ。
その文を読み、俺は急に思い出した。
父母が出会ったのは、一冊の本がきっかけである。その本は、一時期この世界で流行ったもので、どこかにある対になる本の持ち主と交換日記ができるものだ。真っ白な頁に文字を書き、その本に刻まれた呪文を唱えると、それが対の本の一頁となり、持ち主二人が世界に二つしかない本を作る。
流行が廃れた理由は、一冊につき一つの名前しか刻めないこと、対の本がまったくどれになるか解らないことにあった。
父母は、その便利なようで不便な本を使って出会って、番って、子までつくったが、そんなことはそうそうない。だからこうして、息子の手に渡ったりすることは、めったにないことなのだ。そう、もう片方の本が別の誰かの手に渡り、文字を刻むということもないはずだった。
それが、こうして文字を刻んでいる。
それの意味することは一つだ。母のなくした本は誰かの手に渡っていたということである。
『あなたは、魔法使いですか?』
俺の返事がなくとも、本の余白は埋まっていく。
誰とも知れない本の持ち主に、返す言葉など俺にはなかった。
『私は、普通の人間です』
その文字を見るまで、一言もなかったのだ。
俺は本を選別するのも忘れ、本の山に埋もれていたペンを取り出して、綴る。
『はじめまして、俺は竜の魔法使いです』
このとき、俺は名乗らなかった。
相手は、普通の人間だというものの本の向こう側にいるのだ。顔も見えなければ、名前も知らない。字が汚いということはわかるものの、正体不明の誰かに名前を告げようとは思えなかった。その数日前に痛い目を見たばかりだったから、余計にそう感じていたのかもしれない。
しかし、それでも答えたのは人に対する好感と興味があったからだ。痛い目を見たとき、俺を助けてくれたのは人の子だった。
『ありがとう』
俺が答えたあと、礼があり、本の字はそれ以上進まない。先に進まぬ字をじっと待っていられるほど、俺は本の向こう側に興味がなかった。しばらく待ってから、その日は本を閉じる。
そして雪崩れた本の選別を再開した。