…さっちゃんの出した条件は単純だ。
後夜祭のステージに立って、さっちゃんの前に歌うこと。
曲は知っているけれど、歌詞は完璧ではないというとカンペを渡された。酷い有様だ。
カラオケではガイドボーカルという便利なものもあるし、歌詞も出るし、それに色がつくことで歌いやすくなっている…はずだ。
それなのに、いきなりアレンジまでされている曲を歌えというのは、カンペがあってもあまりに無茶振りではないだろうか。
いくら短くても、だ。
曲は約二分半。
歌っている時間はもっと短い。
それでも、緊張を隠せない二分半。
…酷いことになりそうだ。
ステージばかりを気にする俺の腕が、更にきつく握られる。現実に戻されたように、バンドメンバーにおいていかれ、そのまま隣にいた人に気がつく。
大丈夫。視線を合わせて、なんとなく頷くと、騒がしいグラウンドよりも、耳を占拠する音が届いた。
派手で主張が激しいギターと正確に刻むようなベースが先頭をきった。続いてドラムが戦闘を開始。
音が重なる、反響する、奏でる。
歌いながらステージに上がる手はずになっていた俺はマイクをにぎり、先程から腕を離そうとしないさっちゃんにもう一度視線を絡め、俺は笑う。
今は笑うしかない。
「さっちゃん、もういくから」
漸く此方をみた皐の表情は見えない。
手はすんなり離れた。
一つ、息を吸う。
疾走するように、歌い始める。
待ち望んだ声じゃない声がスピーカーから聞こえ、ざわつく会場などよそに、俺は歌い続ける。
「……          」
皐が、何を思ってこの曲を選び、歌わせたのかは解らなかった。
ただ、ステージ脇に残された皐は、何か呟いたようだ。
ステージを歩きながらなんとなく振り返った俺は、ソレを目撃して返すように歌い、手のひらを唇からひらりと離す。
再び観客席をみる。
俺が出てきて、ただ呆然とする観客をみて、楽しい気分になる。
そうだ、たかが二分半だ。
歌っている時間は本当に、少ない。
疾走感のあるこの曲を歌いきる体感時間は、きっともっと短い。
もっと楽しまなければ面白くない。
昔みたいに盛り上げようとはせず、ただ、自分が気持ちいいように歌う。
ハイなまま歌い上げた。
やりきった俺とは関係なく、まるで失速せず曲は続いていく。
皐が、俺とかわるようにして出てくる。
脇に引っ込みながら、また、振り返る。
不意に迷い無くステージへと向かう後姿が、おずおずとステージへと上がった後ろ姿と重なる。
「ああ、なるほど」
合点がいったと頷いた後、完璧にいつもの観客からは見えない定位置につくと、マイクをおろし、息をついたと同時に、その辺にもたれかかる。
いくら、人に見られることをしていても、こういう場は、そうそう慣れるものではない。
安堵のため息をつく。
それからすぐだったと思う。
ふと、誰かの視線が合った気がした。
皐は前を向いたまま、こちらを見ることはない。
歌っている間、見開いて瞬きさえ許さないような、そらすことさえできない視線は何処を見ても一つを見ている。…意識がこちらを向いている。
声は気持ちいいくらいであるが、息を吸う前に動いた唇は空気を求める金魚のようだ。
餌を求めているようにも見える、その仕草は、勘違いをされておわるに違いない。
苦しさに喘いで飛び出した水槽の外は空気の薄くなった水よりも、身体を苛み、逃げることもできない。
空気の薄くなっていく水槽の中を逃げるべきか、いっそのこと水槽の外に飛び出すべきか。
どちらにせよ藻掻かねばならないのだ。
俺は口端をゆっくりとあげる。
ああそっか。疲れてしまったのか。
ただ事実を呟くように張りつけた笑みは酷薄に見えたことだろう。
残酷な笑みは誰も見ていないが、それを知るものはいる。おそらく、それに言葉少なに感情豊かに悲鳴をあげている。
だから、此処で決着を付けてしまいたかったのだろう。
意外と長く続いてしまったから。
疲れてしまったから。
それでも続けたいと願ってしまうから。
どうにかしようとも思えないから。
おわりをのぞんでしまうから。
皐が、俺を練習に呼ばない理由。
正直すぎる『声』を、あまり聞かせたくないからで。
それでも、皐は俺をステージ脇に置く。
悲しいほどに、一途だね、さっちゃん。
可哀想に。
結果がこの声ならば。
まだおわりをのぞめない。