転校生が俺の秘密を知っているというだけで、噂というやつは一人歩きしてしまうものだ。
その秘密とやらがいったいなんであるかを、転校生本人に問いただすくらい俺には『秘密』に身に覚えがあったのだが、転校生が言うには、この前のことらしい。
知っている奴が知っていればいいというのは、面倒くさいが故に出たことばだ。
何も秘密を知っているということではないし、ただならぬ仲というわけではない。
しかし、知らぬ者にとっては、前評判や噂なんてものが指標になるのは普通のことで、俺という人間がどうであるかというものを見極める判断材料になるのも当たり前のことなのだ。
当たり前のことだからこそ、失念していた。
「転校生とただならぬ仲なんだって?」
それほど知らないわけでもないくせに、少しだけ楽しそうに言った志川が憎らしい。ただならぬ仲になりたいのは、今のところお前だけだといってやらねば解らないわけでもないだろう。
いったところで、志川も照れ屋であるから、鼻で笑って、そうかいとかいうに決まっている。まったく憎らしいことだ。
「だったら?」
だからといって、嫉妬の一つもしてくれない恋人というのはあまりに薄情であるような気がする。薄情も何も、一応恋人というだけで本当に恋しいと思われているわけではない。志川の反応もまた当然なのだ。少し面白いと思うほどの親しみはあるのだから、ましなくらいである。
俺がいつも通りの前向きさを発揮すると、志川は俺を信用してくれているから、こうしてからかってくるのだということになる。だが、真実とは時に異常なくらい残酷だ。
「てめぇが付き合ってやりゃあ、あれも大人しくなんだろ」
志川が俺を、どれほどの万能薬だと思っているかは知らない。いや、もしかしたら、胃痛と頭痛の原因になるくらい、人を振り回せる毒薬だと思っているだけなのかもしれない。
まったくもってその通りであるのだが、仮にも、本当に仮にも恋人にむかっていうことではない。俺でなければ傷ついてしまうだろう。
「志川がいるのに付き合うのか」
「俺とはすぐ別れられるだろう」
志川が俺をどう思っているかはこの際置いておく。
しかし、俺が志川をどう思っているかが少しも伝わっていないことに愕然とした。
本当は、俺もそっけなく、さも当然といった調子でそうかもしれないなとか笑ってやらなければならないことだ。そうでなければ、ここにいる間だけでいいとかいえたものではない。むしろ、ここにいる間だけでなくてはならないのだ。
そう考えると、志川の反応は俺にとって僥倖みたいなものであるはずなのに、笑って誤魔化すことも茶化すことも、うまく出来る気がしない。
「ああ、まぁ、そう……」
流すことすら、うまくできなかった。
五十余年生きてきたが、これほど声がうまく出せないのは父母が見合い写真を持ってきた時以来だ。
見合い写真には父母の必死さを感じて、閉口したといったほうが正しい。だが、志川の場合は、俺がうまく答えられないではいけないのだ。
解っている。
志川がもし、俺のことを好きだといってくれても、それは、この学園を出ればマイノリティなことで、志川も男はいけるが、女がいいという性癖の持ち主であるから、俺に気持ちが留まらないかもしれない。よしんば、俺のことが好きだと思い続けられても、マイノリティということに屈するかもしれない。
それ以上に、俺は、自分自身を信じることが出来ない。
感情のことではなく、他人の目でもない。
こうして、幼稚園児からやり直したとか思っている自分自身が信じられなかった。
明確に、記憶がある。俺がこうしてもう一度やり直す前の記憶だ。死んだ覚えはない。だが俺は死んで生まれ変わって、ある日突然幼稚園児になったとか思っているのかもしれない。それは物心がついたからそうなっただけなのかもしれない。
それならまだましで、俺は途方もない妄想をしているだけなのかもしれないし、もっと悪くすれば何かの事故のようなもので、俺という人間は仮死状態で、この現在の俺は余生のようなものかもしれない。
そんな人間を、誰が信用できるというのだろう。
俺自身が信用できなかった。
突然、五十余年を経た肉体に戻るかもしれないし、突然消えてしまうかもしれない。
たとえ俺のような特殊性はなくても、いずれ人は死ぬ。それは突然であるかもしれないし、ゆっくりと意識を閉じていくようなものかもしれない。
推測の域をでないし、何事も不確定であり、今、生きているということが大事なのだろう。
そうは思うものの、その部分において、俺は前向きになろうとは終ぞ思えない。
好きなのだ。
本当に、好きで、好きで、だから先を思う。
自分勝手に振舞うこともできるし、二人で一緒にどうにかすることもできる。
そのどちらも、臆病な俺には選べない。
こうして笑い話にされるくらいにしか思われていないのに、馬鹿らしい臆病さだ。
「そうかも、しれないな」
呟くように、ようやく零したことばの力なさに、笑みも零れた。あまりのことに、笑うしかない。
俺は、本当に馬鹿だ。
「何をしおらしく」
「俺はお前が嫌いだよ」
志川の言葉をさえぎって、いつもはいわないようなことを口にする。
「好きだから、嫌いだ」
志川が俺を、少し不思議そうな様子で見ていた。
「そうだな、別れてしまうか」
何も知らないふりをして、平気な顔をしていたい。
「……いわれてみると、なんか腹立つな」
俺はわざとらしく肩を下す。
「転校生にとられて腹が立つ、ではないだろ。いつもと違う立場に腹が立つだけだ」
いつも通り茶化すこともできたはずだ。どうして、こうも、ままならないのだろう。
志川は、俺にどうしたのか聞きたかったのか、口を開いた。
それも、俺が塞いだ。
しばらく、あっけにとられている志川の口の中を俺の舌で嬲って、笑ってみせる。
ひとつ息を吐き、吸った。
「ザマァミロ」
うまく、誤魔化せただろうか。
誤魔化せていたら、さすがに心の中で志川を少し責めてもいいだろう。
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